巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame8

      椿説 花あやめ     

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.7.11

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      椿説 花あやめ     黒岩涙香 訳

          八 貴方はお泣きですか 

 子爵は絵を見るよりも、絵に就いての梅子説明を聞いて見たい。聞くうちには教育の程度も、心栄えの高低も自ずから分かるだろうと思い、誘われるまま、次の間に到った。ここは殆ど絵画の展覧会である。

 梅子は試されるとは知らない。次第に初対面の隔ても取れ、思うままを話す事と為って、
 『父が何故に絵を大事にするとお思いですか。』
 子爵『私には分かりませんが、何故です。』

 梅子『父は絵ほど人の心を美しくする者は無いと云いますよ。それだから自分の死ぬ迄に、此の町へ春川絵画館と云うのを建て、縦覧を許して自然の間に人の心へ美の教育を施す事にすると云って居ます。是が父の唯一つの理想とやらです。それで此の様に多くの絵を集め、自分の画いたのも、此の十年来は決して売らない様にして居ます。』

 行い難き空想であるけれど、兎に角思想の高い一家である。
 子爵『十年も売らずに画いてのみ居れば、余ほど沢山に溜まって居ましょう。』
 梅子『ハイ絵は年々に殖(ふ)えますけれど、その代わり他の品物が年々減って行きます。』
と云い、又少し極まり悪そうに、

 『私は、折角貴方がお出で下さったのに、何うか此の家でお泊り下さいと云う事が出来ないのが残念ですよ。少しも阿父様が構って呉れないのですもの。』
と少し紅(赤)らんだ。

 アア世間も知らない乙女の心に、この様な苦しい思いをさせるとは、気の毒の至りだと、子爵は浅からず同情を催おして、 
 『イヤ泊めてなど戴くより、美しい絵を見る方が御馳走です。私は毎日でも来ますから。』

 梅子は安心した様に、二ッと笑んで、
 『貴方は絵を見るのがお好きですか。』
 子爵『嫌いな人は有るまいと思います。』
 梅子『それではここに在るのが父の絵です。』
と云って、一方の架を指差した。

 見ると孰れも花又は詩歌から意匠を取った者で、一方ならぬ傑作である。決して古今の名画と肩を並べても遜色が無い。成るほど是だけ出来るから、娘の幸福も何も思わずに、絵のみに夢中となるのも無理は無いと思った。

 梅子はやがてその一々を説明し始めたが、絵の出所と為って居る詩歌などは、淀みも無く諳(そら)んじて居て、その句を声を出して、節をつけて読んで子爵に聞かせた。教育は意外に届いて居ると見える。

 こう思うと、子爵は深く満足に感じたが、それに連れて愈々梅子の境涯の傷(いた)わしさが増して来る。もうここで我が養女にして遣るとも云って見ようかと、その言葉が口まで衝いて出るよう
に感じたけれど、それでは家を出た時の約束が違うから、黙って耐(こら)えた。

 耐(こら)えても憐れさは尽きないから、何と無く気の沈む心地がして居ると、梅子はそうとも知らず、又一枚の絵に向かい、之は私の極好きなものです。海の際に遊んで居る子供の顔が可愛ではありませんか。』

 海と聞いて子爵は我にもあらず涙を浮かべた。日頃からその様な心弱い振る舞いは、露ほども無いけれど、丁度心の沈み掛けた所へ、太郎次郎の事から、一家一身の不幸や、梅子の境遇など、様々の事柄が集まって、不意に心を動かしたのだ。

 『おや貴方はお泣きですか。』
と真に梅子は怪しんで目を大きく張り開いた。
 子爵『許して下さい。梅子さん、ツイ私は、海だの子供だのと聞き、此の頃の不幸を思い出しまして。』
云っても未だ合点が行かない。

 『何かその様な不幸がお有りでしか。』
 子爵『蔵戸一家の不幸は未だーーーー。』
 梅子『ハイ、新聞は来ますけれど、美術の事ばかり書いてあるので、少しも世間の事が分かりません。』
 
 子爵は涙ながらに、太郎次郎の水死の顛末を語って聞かせた。
 梅子の驚いた事は云うに及ばない。最後に子爵が、
 『此の様な訳ゆえ、私は旅行でもしなければ、気が紛れず、少しでも用事の有る旅に家を出て、遠い近いの差別も無く、親類や知人を尋ねて居ます。何所かに慰めて呉れる人も有ろうかと思って。』

と云うに至り、貰い泣きをする許(ばか)りの様と為って、
 『私が若し慰めて上げる事が出来れば何れほどか嬉しいでせう。』
と云った。少しでも子爵の真意を疑っての言葉では無い。此の女にして若し我れが心を慰める事が出来なければ、誰が出来よう。何でも是を失っては成らない様に思い、

 『ハイ貴女なら私の心を慰める事が出来るのです。近日私は家に帰り、他の親類の者などをも招く積もりですから、その時は何うか貴女も逗留に来て下さい。家の中に貴方の様な若い人の笑い声が聞こえれば、自然に愁いも忘れるだろうと思います。』
云いつつも、此の少女が若し子爵の姫君、蔵戸家の当主と為れば、何れほど似合しいだらうと怪しんで、その姿を右視左視(とみこうみ)した。

 梅子は唯だ逗留に来いと請われる物珍しさに、顔も晴れ渡る様になり、
 『美しいお屋敷でしょうねえ。本当に招いて戴き度いと思いますよ。』
思う事は悉く目に口に、顔総体に、将(は)た又言葉に現われる。

 透き通った様な気質である。隠しも飾りも出来ない。真に清い心と云うのが之だろうと、子爵は感心した。
 此の夜、子爵が宿に帰り、留守番をして居る葉井田夫人へ書いて送った手紙は見物であった。

 『夫人よ、余は真に、天がこれほどまでの慰藉を余に賜って呉れるだろうとは思わなかった。春川梅子は生まれながらの子爵婦人である。顔も姿も心栄えも悉く蔵戸家の系統を、最も完全に伝えた者にして、我が子と雖もこれほどまでになろうとは望み難い。

 実に血の筋は争われない者である。余は若し家を出る時の約束が無かったならば、最早や草村松子を尋ねる必要も無しと思う。イヤ実際、梅子の前に居る間はあの約束を忘れて居た。夫人よ、蔵戸家の為に歓喜せよ』
などの文句があった。



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