hanaayame9
椿説 花あやめ
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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椿説 花あやめ 黒岩涙香 訳
九 競争の様なもの
子爵は廿日ほど此の土地に逗留した。その間は毎日梅子の許を尋ねもし、或いは梅子を我が家に招きもしたが、見る度に値打ちが増す様に思われる。顔と姿の美しさは勿論、心の性質が清くあどけない子供の様で、少しも飾り気、偽り気が無い。所謂る天真爛漫とは是なんだろう。その上に奥ゆかしい詩的な所がある。云う事。為す事が、総て婀娜(あどけ)ないうちに、溢れるほどの愛を帯びて居る。
此の上の女は想像する事も出来ないと子爵は思った。けれど若し是よりも、もっと上の女が居たらば何うだろう。
廿日の中には梅子の父にも逢ったが、父は世の中に絵ほど貴い者は無いと思って居て、何を話しても絵の事へ引き附けてしまうので、少しも相談らしい話しは出来ない。
併し梅子が子爵家へ逗留に行く事には同意した。勿論それも子爵家に数多の古い画が伝わって居る事を聞き取っての上であった。
間も無く葉井田夫人から梅子へ招待の手紙が来た。梅子からそれを子爵へ示したので、子爵は余所ながらに、貴族の家の客と為る心得などをも説き聞かせた。
若し此の女に母が有れば、何事にも似合しく気を附けて遣るのだろうに、母の無いだけ、子爵はは何だか不憫が増して、分かれ去るにも忍びない様な気がした。そうして愈々(いよいよ)分かれる時と為り、子爵は一封の置土産を梅子に渡し、母が娘に云うほどの細かな親切を以て、
『梅子さん、私の去った後で此の封開いて下さい。仲に入って居るのは私の家へ逗留に来る支度の料(しろ)です。ナニ支度も何も要らない様な者では有りますけれど、母上が此の世に居られるなら、きっと飾り立てて遣り度いと思うのでしょう。是ならば阿母(おっか)さんが満足するだらうと思う様に、自分で良く考えて着物などもお作り成さい。支度の第一は着物ですから。』
と噛んで含める程に云った。
梅子は理解出来ない様子で、
『それほど立派にしなければいけないのですか。お嫁に行くのでも無いのに。」
と云って微笑んだ。
子爵『ハイ外の親類なども来ますから、立派にしなければ、亡き母上まで彼れ是れと噂されます。』
此の一語は梅子の心を決した。
『阿母さんが笑われる様な事は、何う有って仕は致しませんよ。』
子爵『そうです。そう無くては成りません。それに、多分は同じ年頃のお友達も有りましょうから。』
お友達とは何より嬉しい。梅子は顔を輝かせて、
『私はお友達が欲しいと思ってますけれど、一人も有りませんもの。」
子爵『貴女は草村松子と云う名を聞いた事が有りますか。』
梅子は考えつつ、
『草村と云う親類の有る事は、是も阿母さんに聞きましたが、その上の事は少しも知りません。』
互いに訪問し合うなどする程、余裕が無かった為なんだろう。
子爵『此の松子と云うのは、貴女の従姉妹に当たりますが、之も来ます。』
梅子は愈々(いよいよ)嬉し気である。
『従姉妹ですか。その様な方が有るなら、早く逢い度いと思います。』
子爵『逢った上で貴女の方が、若しも見劣りがしてはいけませんから、充分何彼に気をお附け成さい。』
梅子『それでは競争の様な者ですねえ。』
と云って又笑った。何たる罪の無い気質だろう。
愈々子爵が去った後で、置き土産の封を切った。千五百円の銀行券が入って居る。一方ならず驚きはしたけれど、子爵から支度に使えと云われたから、残らず支度に掛けなければ済まないと思い、直ぐに町へ行き、女裁縫師の某夫人を尋ね、訳を話したが、その夫人の指図を聞いて見ると、千五百圓がそれほど多過ぎもしなかった。
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この様にして子爵は梅子に心を残しつつ、此の土地を去り、倫敦へ云ったが、勿論朝廷と浅くない関係のある家筋だから、昔から倫敦には立派な屋敷がある。蔵戸邸と云えば、総ての貴顕紳士が羨むほどの好い位置を占めている。
一頃は家の微弱の為め、此の屋敷を閉じ、唯一年に一度、朝廷へ御機嫌伺いに出る時のみ、下僕などを連れて来て開かせる様にして有ったが、此の子爵の代と為って以来、少しでも家名に係わる様な事は、悉(ことごと)く改めなければ成らないと云って、一年中、一通りの召使い人員を備えて置き、何時子爵が都に出ようとも、宿屋などには入るに及ばず、直ぐに自分の家へ帰るのと同様の心持ちで、此の屋敷へ入る事の出来る様に成って居る。
之は当たり前の事では有るけれど、子爵の名は之のみの為にも重きを加え、蔵戸子爵に逢うと云う事は、誰も名誉と心得る程で、若し此の邸へ招かれたとでも云えば、羨まない人は無く、当人は十日も二十日も人に吹聴する程の次第である。
子爵は此の屋敷に入って、先ず第一に草村松子親子が、何の様に暮らして居るかを聞き合わせた。
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