hitokaonika36
裁判小説「人耶鬼耶(ひとかおにか)」 小説館版
エミイル・ガボリオ原作 「ルルージュ事件」 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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裁判小説 人耶鬼耶 涙香小史訳述
第三十六章 禮堂を頼る呉竹姫
呉竹姫は田風呂判事に分かれて、直ちに裁判所を出たが、既に有徳が無罪である事を言い開いたので、此の上は唯だ男の力を借りて、相当の手続きとやらを尽くして、有徳の放免を願う外はないと、心は思い定めても、深窓に育った悲しさ、有徳と田風呂氏の外には、日頃親しく交際している男子は居ないので、誰に打ち明けて相談しようと、暫(しばら)く思案に呉れていたが、頓(やが)て思い出した様に、
小森禮堂こそ有徳の父であるので、子を救わない筈はない。頼るべきは唯、此の人の外は居ないと、勇ましくも胸を定め、小森家を指して急いだ。此の時礼堂ハ食堂にあって、昼飯を喫(た)べて居たが、取次の者から、呉竹姫が来た事を聞き、非常に驚いて、如何(どう)しようかと考えた。
考えても面会の外、別に考えが浮かばなかったので、身を起こして客室に行くと、姫は早や其処(そこ)にいた。禮堂は進み寄り、
禮「オオ、呉竹か、有徳の様子を聞きに来たのじゃナ。」
姫は臆(おく)する色もなく、
呉「イエ、伯父さん、有徳の様子を、お知らせ申しに上がりました。」
禮堂は怪しんで、
「ナニ、知らせに・・・・」
呉「ハイ、有徳は無罪であります。」
と聞いて禮堂は益々怪しみ、
若しや呉竹が、狂気したのではないかと、疑うばかりに目を開いて、姫の顔を眺めるばかりで、一言の言葉もなかった。
呉「伯父さん、私しは初めから、有徳が罪を犯す筈はないと思いましたが、今日は愈々(いよいよ)その証拠があります。」
禮堂は宛(あたか)も我が耳を、疑う様に頭を右左りに傾け、
禮「ハテな、無罪の証拠が・・・・」
呉「ハイ、私しは唯今、裁判所へ参り、判事にも其の証拠を知らせて参りました。有徳は四日の夜、私しと共に十二時まで話していましたので、罪を犯す筈はありません。
それを判事が知らないから、疑ったのあります。有徳は男子ですから、私の恥じに成ると思い、その事を裁判所で申し立てずに居ましたので、益々疑いが重くなったのであります。それを私しが、言い開いて参りました。」
禮堂は初めて姫の言葉が通じた様に、
禮「フム、言い開き。言葉だけでは通らないぬ筈じゃが・・・。」
呉「言葉だけではありません。確かな証拠が、私の家に残っていますので、裁判所から役人が出張して、今頃は丁度検査中です。」
禮「フム、その様な事はない筈じゃ。」
姫は悲しい声を出し、
呉「貴方までも裁判官と同様に、有徳を疑いますか。貴方は父親として、有徳の気質を御存知ありませんか。有徳の為に一片の言い開きも為されずに、此の儘(まま)我が子を捨てますか。」
と言う鋭い言葉に、禮堂は日頃の気質に似も依らず、黙然として、頭(こうべ)を垂れた。
それ、人の好まざる事を説く事は難(むずか)しく、その好む所を説く事は易い。禮堂は仮初(かりそ)めにも父(おや)の身として、我が子を思う呉竹姫の言葉を聞き、又我がたよりにする有徳の、無罪であることを聞き、
仮令(たと)えその言葉が意外であっても、何時まで信ぜずに居るべきか。又、争(いか)で日頃の気質の様に、一言の許に立腹するべきか。忽(たちま)ちにして心解け、姫の手を執(と)って、
禮「呉竹、好く云って呉れた。成る程、有徳は潔白な男じゃ、人を殺す筈がない。・・・。シテ有徳はもう放免と為ったのか。
呉「未だ放免にはなりません。色々と判事に願いましたが、私の力には及びませんので、貴方にお頼みに上がりました。」
禮「フム、俺を頼みに。」
呉「ハイ、裁判所では、夫々の手続きがあると申しますので。」
禮「ハテな、裁判所の手続き、そうか。」
と暫く考えて、溌(はた)と手を拍(う)ち、
「アア、餘り其方(そなた)の言葉に感心して、ツイ忘れて居た、その手続きは實が知って居る。澤田實が・・・・」
呉竹姫は澤田實の名を聞き、是ぞ有徳の後に直る嫡男にして、有徳が不幸の身となったのも、畢竟(ひっきょう)《つまりは》此の實とやらの為だと思うと、清き心も有繋(さすが)は少女(おんな)、自ずと変わる顔色を禮堂は早くも見てとり、
禮「ナニサ、實とは有徳の兄弟で、世に珍しい人物じゃ。俺の若い頃に生き写しじゃ、心配には及ばない。智慧もあり、心立ても優しく、とりわけ有徳を愛して居る。既に昨日も此の俺に向かい、有徳を弁護して救い出すと約束して、今では其方(そなた)へ、骨を折って居るから、此の事を話しさえすれば、喜んでその手続きを仕て呉れる。大丈夫じゃ・・・・。今は有徳の阿母(おっか)さんが、病気で危篤だから、その傍に居るけれど、使いを遣れバ、飛んで来る。サ心配には及ばない。」
と説き聞かすうち、禮堂は又も澤田夫人の事を思い出したか、忽(たちま)ちに言葉の調子を変え、
「アア爾(そう)じゃ、使には及ばない。是から實の宿まで出掛けて行こう。其方(そなた)と二人で・・・・其方も有徳の阿母(おっか)さんに、一目逢って置くが好い。俺も暫く逢わないから、サ行う。」
と言って性急に呉竹姫を迫(せか)し立て、終(つい)に馬車に乗り、姫と共に澤田實の宿を指して出発した。その心は七分は痴情に出たことに違いない。
〇忽(たちま)ちにして馬車は、實の宿に着いたので、禮堂は姫の手を引き、その二階に登(あが)って行き、出て来る召使に向かい、實は内に居るかと問うと、先刻止み難き用事があると言って、出で行ったまま、未だ帰らない旨を答えた。
禮「それでは暫くその帰りを待とう。」
と言って、一間の中に入って行った。茲(ここ)は澤田夫人の病室の、次ぎの部屋と見え、医者が一人、僧侶が一人、海軍士官の服を着(つ)けた人一人(これは先回に澤田實が迎いの手紙を出した、夫人の弟何某である。)
互いに悲しき顔をして、言葉も無く控えて居た。
禮堂の様子を見て士官風の男は、此方を見かえり、怪しそうに眺めたので、禮堂は一礼して、
禮「わしは實に逢わなければならない用事で参ったが、留守との事なので、暫く茲(ここ)で待たして貰おう、ナニ、怪しい者ではない。わしは實の父小森禮堂で御座る。」
と言うと、皆々驚いて座を譲ったけれど、士官は独り腹立だしそうな面色(おももち)になり、不詳無精に会釈したのみ。禮堂は此の次ぎの間に、昔し愛した澤田夫人が、病み臥(ふ)せているかと思うと、腰さえも落ち着かず、何とかして面会したいものと、傍(そば)の医者、春辺氏に向かい、
禮「夫人の容体は如何(いかが)ですか。」
春「悲しい訳があります。明日までは持ちません。」
禮「そうですか、それは可哀想じゃ、シテ次ぎの間に寝て居ますか。」
春「そうです。寝ては居ますけれど、もう昨日から前後の弁(わきま)えもありません。」
禮「それは可哀想じゃ、責めては此の世の余情(なごり)じゃ。一目面会して参ろう。」
と云いながら立ち掛けると、士官は遽(あわただ)しく遮(さえぎ)って、
士官「イヤ、侯爵、もうお逢いになっても無益であります。却(かえ)って心騒がせるだけであります。それよりは、安々と死なせて遣るのが功徳でしょう。」
と云うと、傍(そば)に居た僧侶が口を出し、
僧「イヤ、面会なされても、御当人には通じませんので、大事はない。死に際に顔を見せるのは、却って功徳になります。」
と云うので、禮堂は力を得て、突々(つかつか)と次の室(間)に進み入った。
ふと見みると、彼方の寝台に息も絶え絶えになって、眠って居るのは澤田夫人であるが、今は痩せ尽くして、骸骨の様で、昔の面影は殆んど失せ果てて、見違えるばかりであった。不思議なる哉(かな)。
今迄人事不詳だった澤田夫人は、禮堂の足音に忽(たちま)ち目を開き、肘を力に起き直って、禮堂に向かい、幽霊かと疑われる計(ばか)りの、物凄(すご)い眼で、禮堂を見詰めたので、禮堂は思わず一足二足、後ろの方へ飛び退(の)いた。
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