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人耶鬼耶(ひとかおにか) 小説館版
エミイル・ガボリオ原作 「ルルージュ事件」 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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裁判小説 人耶鬼耶 涙香小史訳述
第七章 有徳に面会する實
散倉は實が小森家の偽長男に逢ったと聞き、非常に驚き、
「コレ實、先ア、その時の様子を詳しく聞かせて呉れ、其方(そなた)は彼に何と云った。又彼が其方に何と答えた。是は大事な所だから、落ちなく話して呉れ。」
實は少しの間考え、
「イヤ、実は私しも後日になって、若し法廷にでも、持ち出さなければならない事になれば、有徳は私しの敵(かた)きになるかも知れないので、今迄の事を残らず手帳へ留めてあります。」
散「ドレその手帳を見せて呉れ。」
實はポケットから手帳を取り出し、
「之を」
と言って差し出すのを、散倉は受け取って読み下す。下の通り。
「私(澤田實)は先月十四日、証拠の手紙を見出し、初めて我が身が、皇族小森家の一子であることを知ってから、殆んど、自ら発狂するかと思う迄に心を乱した。アア私の家は、先祖代々血統清き、皇族の家であるのに、今は偽物の為に汚されようとしている。私は如何にしても、此の偽者を追い出し、小森家の穢(けが)れを、洗わなければならい。
この様に思うは思うものの、或いは腹立たしさに眼が眩(くら)み、或いは恐ろしさに心鈍り、如何したら好いか、思案が定まらない。之を法廷に持ち出せば、私は幸い、法律の学問に詳しいので、勝ちを得る事は、非常に容易(たやす)いけれど、そうすれば、我が父の恥じと、我が家の恥じを世間に知らしめる事になる。
私は飽く迄も、事を穏便に済まさなければ、子たるものの道では無いと、漸(ようや)く心を定めたけれど、まだ是れを思い、彼(かれ)を思って、食も咽喉(のど)を通らず、寝ても眠る事ができない。
私は凡そ二週間の間は、生まれてから覚えが無い程に、心を苦しめた。
しかしながら、何時までも、空しく心を苦しめるべきでは無いだろう。終に先月(二月)二十八日には、充分に考えを深め、此の上は唯だ父である小森礼堂に逢い、真心を以て、事の是非(よしあし)を説いて、今迄の過ちを改めさせる外は無いと、思案を定め、家を出て、既に小森家の門(かど)まで行ったけれど、その家の高大なのに心臆し、閾(しきい)を跨(また)ぐ事が出来ずに帰った。
翌日も又行った。私の心は又挫けた。翌々日にも又行って、又挫けてしまった。私は余(あま)りの事に、我が身の不甲斐なさを嘆き、寧ろ自殺して、此の世を去ろうかと迄に思ったが、自殺する勇気があるなら、なんで父に面会する事が、出来ないことがあるものかと、必死の心を励まして、法廷に出る黒い服を纏(まと)い、馬車を借りて、之に打ち乗り、一散に馳(はせ)て行った。
アア決心ほど強いものは無い。私は家の高大なのを見て、
「是れは我家である。」
と思い、玄関の厳(いか)めしいのを見て、
「此の厳然(おごそか)な構えを、どうして偽物に汚させて好いだろう。」
と思い、戦場に臨む心で、玄関の鈴を引いた。
内から出て来る取次の男、私の借り馬車を見て、私を軽蔑する様子が見えたけれど、
「私は此家の主人であるぞ。」
と心の中に励ますものがあったので、充分清き声で、
「禮堂侯に面会したい。」
と述べると、
「主人は日耳曼(ゼルマン)《ドイツ》に赴(おもむ)いたので、今四、五日を経なければ帰りません。」
と答えた。
「それならば、有徳伯でも宜(よ)い。」
と云うと、取次は無言で退いた。頓(やが)て一人の男が出て来たが、是は有徳の従者であるに違いない。先ず私に向かって、姓名を問うたので、私は、
「真の小森有徳である。」
と答えようかと思ったけれど、事の次第を知らない従者どもに、この様に答えたならば、狂人と思われるだろう。だからと言って、
「澤田實」
と答えるのは、我が身分を降(おろ)すに均(ひと)しいので、私は唯だ、
「まだ有徳君と一面識は無いけれど、至急逢わなければ成らない事がある。」
と答えた。
此の時、私の決心が、充分顔色に現れたのか、従者は、
「暫く待たれよ。」
と言って退いた。此れから凡そ二十分ほど、玄関に立って居たが、今の従者は又出て来て、私を非常に奥まった一室に案内した。
私はその部屋の様子を見るに、有徳の居間の次の間(部屋)と見え、数多くの鉄砲、長短新古の剣類を、壁に隙間もなく掛け連ねてあった。
有徳は何所かへ、出て行こうとする間際であったが、私と同じく黒い服を着て、高帽子を被(かぶ)って、部屋の一方に立って居た。
私が入って行くと同時に、帽子を上げて、丁寧に挨拶したので、私も同様に挨拶した。
先ずその容貌を見ると、眉目(みめ)清くして、皇族の子と云うのも、恥ずかしくはない。
私より十日ばかり、先に生まれて居たが、私の様に貧苦を嘗(な)めていないので、色白くして玉の様で、その年さえも私よりは、三、四歳若く見え、口の上に八字の髯があるのは、威あって猛からずと云うべきだろう。
私は既に、二週間前からこう言おう、ああ答えようと、充分に言葉を選り定めて置いたので、少しも惑(まど)わず、口を開き、
「伯爵よ、私と君は、互いに知らない人であるが、私は今日最も大切で、最も悲しい使いを佩(お)びて参りました。
君の身に取って、大切であるのみならず、君が名乗っている、小森有徳と云う名前にも、係わる事です。」
彼は聞いて少しも騒がず、
「君の用事は、永く手間取りましょうか。」
と、極めて愛想なく問い掛ける。私も同様に愛想なく
「そうなります。」
と答えた。
有徳は、
「エエ、面倒臭い。」
と云わないばかりに、眉を顰(しか)めたが、言葉を正して丁寧に、
「今日は長くは応接する事は出来ません。実は是から、私の許嫁けである、貴族荒川家の令嬢呉竹姫の許へ、是から参る約束なので。」
散倉は是まで読んで一息つき、
「フム彼奴(きゃつ)も女があるな。」
と云うと、實は、
「それはありますとも、私しにもお理栄と云う許嫁がありますもの。」
散「今の若いものは油断がならない。己(お)れは此の年に成っても未だ独身だ。」
と云いながら手帳を出し、遽(あわただ)しく、呉竹嬢の名を書留て、又も読みける。
(有徳の言葉)
「此の面会を、他日へ延す事は出来ないだろうか。」
私は是で、彼れが面会を謝絶する下心であるのを見て取ったので、手早く手紙の中の一通を取り出し、
「一刻も延す事は難しい。是を見られよ。」
と差出だすと、手早く手紙の中の一通を取り出し、彼は父禮堂の筆跡である事を知り、初めて事柄の軽くないのを知った様に
「成る程、それでは今日の約束を断って、緩々承まわりましょう、暫く待たれよ。」
と言いながら、墨筆を取寄せ、匇々(すらすら)と呉竹嬢に宛てた、断りの手紙を認め、之を従者に渡し、改めて私の方に向き、
「失礼しました、サ先ず安座し給え。」
と言って、立派な椅子を差し出したが、彼は全く、自分が小森家の偽長男である事を知らないと見え、その顔色も、その振る舞も、少しも変わらず、少しも騒がず、殆んど私の意外に出る程であった。
そう言いながら有徳は、先ず腰を掛けたので、私も落着いて座を占めた。
有「サ話されよ、承たまります。」
私「私が今日来たのは、実に悲しい事件です、私自ら、その事柄を疑う程なので、君に於いても、きっと疑うでしょう。しかしながら気永く此の手紙を読み尽くせば、自然に合点が行くでしょう。
君が残らず読み終わるまで、私も又気永く返事を待ちましょう。」
と云うと、有徳は不審相(いぶかしそう)に、
「全体何事でしょうか、先ずその概略を承(うけたま)わりましょう。」
私「君よ、驚く勿(なか)れ、此の手紙に拠れば、君は小森侯爵の不正の子であります。正しき子ではありません。正しき嫡男は外にあます。私は即ちその嫡男に頼まれて、参ったものです。」
と言う私の言葉が、未だ終わらないのに、有徳は非常に立腹し、今にも私が咽喉(のど)に、攫(つか)み掛かるかと思う程に、怒りの色を現したけれど、流石は皇族の家に育った身だけに、それほど無作法な事をしない。
頓(やが)てその怒りを押鎮め、
「イヤその手紙を示しなさい。」
と云うので、私は順を揃(そろ)えて、悉(ことごと)く渡した。
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