巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma1

人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

since 2021.3.11


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

   人の妻  バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳

         
    (本篇)一 「余ほどの美人に違い無い」

 愈々(いよいよ)丈夫が返って来た。是が「本篇」の起首(はじめ)である。
 彼れはロンドンへ着くや否や。その帰着の旨を政府へ届けた。そうして次には我が家へ電報を掛けるべきで有るが、不意に帰った方が、母の喜び方が劇(はげ)しいだろうと思い、そのまま汽車に乗り、家に着いたのは夜の八時過ぎである。

 燈光の下に二人の未亡人が夜業(よなべ)して居るのは誠に哀れに見えるものだ。丈夫が家に着いた時の有様は丁度是れである。我が母と内山未亡人とが、膝に幾片の小切れを置いて針仕事をして居る。傍らには、仕事に飽きた時読む為か、開いた本が伏せてある。此の本は後で分かったが、大津博士から贈られた者であった。

 殊に母の方は仕事の手を止めて何事をか考えて居る。昼間見るのとは違い、大層年取って見える。我が二年近い留守の間に、こうもお年が寄られたのか。今も定めし我が事を考えて居るのだろうと、こう思えば、留守中の長い淋しさが計られ、痛々しい様な気がする。

 「阿母(おっか)さん丈夫が帰りました。」
と言い、赤児の様に、母の身へ縋(すが)り附いたが、母も丈夫に縋り附き、暫しは涙の出るほど喜んだ。
 けれど母御は、流石に健気な方で、女々しい泣き事は云わない。

 「其方は輪子と、絶えず手紙の遣り取りを仕て居る相だが、もう妻帯の出来る身にお成りかエ。」
と云うのが、何より先の問で有った。
 丈夫「未だそれ程でも有りませんから、矢張り熟考中なんです。けれど阿母さんは、その手紙の遣り取りを何うしてご存知です。度々輪子の許へお出でですか。」

 母「イイエ、彼家(あすこ)へ風間夫人と云う人が来てから、私も内山夫人も少しも行きませんけれど、博士が散歩の度にここに立ち寄られるので。その辺の事が良く分かります。」
と言って、是より様々の話に為って、丈夫は、近日波太郎の妻が豪州から児を連れて来る事までも聞いた。

 母御は兎角に輪子の事が気に障る様子で、
 「其方(そなた)は帰った事を輪子へもうお知らせだろうネ。」
 丈夫「阿母さんに知らさない先に、何で他人へ知らせましょう。」
 母「では明日にも不意に尋ねて行って驚かせる積りだネ。」
 丈夫「先アその様な者です。けれど阿母さん、ご心配下されますな。貴女に不安な様な事は、決して私は仕ませんから。」

 母御は此の言葉に少し心の休まった様子である。
 翌日丈夫は、出し抜けに輪子の許に尋ねたが、驚かせる方は好いが、驚かされる方では必ず嬉しいと限っては居ない。丁度輪子は、今まで丈夫に隠している癇癪と云う悪い癖の起こった時で、家中に響く声を立て、恐ろしい悪口で下女を叱って居る時で有った。

 丈夫は此の声に意外な思いをして、恋も褪(さ)める許りに感じたが、やがて部屋へ通って待つ間も無く輪子は来た。来たが何時も丈夫を迎える時ほど充分な用意をして居ないので、怒りの色も未だ残って居て、そうして顔も美しい所よりは美しく無い廉々(かどかど)が異様に目立ち、殆どその「地金」が見えた。

 その上に着物も日頃の様に、容貌との反射が旨く付いて居ないので、第一に丈夫の胸に浮かんだ感じは、
 「何で此の様な女を美人と思ったか知らん。」
と云う怪しさで有った。けれど輪子の方では、今度こそ取り逃がしては成らないと云う大決心が有るのだから、此の落ち着いた物静かな男を、先ず心から撹乱(かきみだ)して掛らねばいけないと思い、丁度芝居の様に、

 「オオ丈夫さん、お懐かしい。」
と叫んで、泣き声と共に、丈夫の膝へ縋(すが)り附いた。親身でも無いのに此の様なケバケバしい振る舞は、決して人の同情を引く者では無い。下品に見えて、却って有る同情を無くするのだ。輪子は随意に加減の出来る泣き声を少し止め、

 「帰って来て下さって、何れほど私は嬉しいでしょう。貴方が御留守では、頼りに思う人が一人も無いのですもの。」
 受け取った手紙の文の上品なのと、何でこれ程まで違うだろう。
 怪しみつつも丈夫は、
 「私しの帰国をそうまでお喜びとは思いませんでした。」

 輪子「それは余りお酷(ひど)いでは有りませんか。馬鹿な女とお思い成さるかも知れませんが、私は、私はーーー」
と云い、何か大変な事を言い出し相に見えた。誰か此所へやって来て、輪子の言葉を邪魔でもしない限りには、丈夫は返事にも困る進退両難の場合に立ちそうである。

 幸いなる哉、その邪魔が現れた。
 「時間表を捜して呉れ。時間表を捜して呉れ。」
と燥々(いらいら)して例の博士が飛び込んで来た。
 「オヤ御帰国、爾(そう)、爾」
とて丈夫と握手し、更に娘に向かい、

 「波太郎の妻の乗った汽船イベリヤ号が明日着くと云うが、私は船まで迎えに行かなけれ成らない。汽車の時間表を、時間表を。」
 輪子は肝腎の所を妨げられた腹立たしさに、
 「迎えにはロンドンに居る姉さんに行って貰い成さい。」

 博士「イヤ道子は赤ん坊が猩紅熱(しょうこうねつ)で行かれないとよ。何だって此の様な時に病気に成るのか。私は出迎えなどに不慣れだから、出る船と来た船とを間違えて、自分が豪州まで載せて行かれるかも知れん。」
 真に其の恐れが無いでも無い。丈夫は日頃の親切で、

 「イヤ、今日私がロンドンまで行きますから、お供致しましょう。船の事などは良く存じて居ますから。」
 博士の口から、
 「爾(そう)、爾、爾、爾」
が衝いて出た。爾して更に、

 「では私は行くには及ばない。貴方一人で行って何かその女を上陸させ、それから汽車に乗せて、今乗せたと電報を打って下さい。」
 仲々簡便な工夫を思い附いた。
 丈夫「ハイ、それでも宜しいですが。それなら何うか紹介状を私へ」
 博士「爾(そう)、爾」

 輪子は見兼ねた様に、
 「阿父(おとつ)さん」
と云ったけれど、
 「爾(そう)、爾」
と気にも留めないで博士は去り、間も無く大津槙子へ宛てた紹介状を持って来て、

 「何も譯は無いでしょう。頼みましたよ。爾(そう)、爾。」
と言って又去った。

 輪子は自分より外の女を、丈夫に保護させるのを好まない。殊に自分の心に引き比べて、その槙子が、爵位ある丈夫の姓名、丈夫の立派な顔とを見て、直ぐに丈夫を虜にする気を起こしはしないかと、それが何より気遣わしい。何でもその婦人を傷付けて置かなければ成らないと思い、

 「本当に図々しい女ですよ、何でも極々賤しい素性に違い有りません。父へ寄越こした手紙でも分かって居ます。」
と云い、立って彼の最初病中に認めたと云う不出来な手紙を持って来た。

 これ程迄に用心するのも、一つは日頃波太郎が仲々女の綺倆に掛けては口喧(やかま)しかった事を知って居るから、彼が妻にする程の女ならば、余ほどの美人に違い無いと云う心配が心の底に潜んで居るのだ。この様にして丈夫が右の手紙を見て居る間に、

 「私の考えでは、波太郎の妻と云っても、本当の妻では無く、野合の果てに児が出来たのだろうと思います。イイエ風間夫人なども、きっとそうだと云って居ますよ。その様な汚れた女を此の家へ入れるのは厭ではありませんか。」
と云った。けれど此の中傷に果たして効能が有ったか否かは分からない。

 丈夫は手紙を読み終わって、
 「波太郎の妻なら、きっと此の通りの酷(ひど)い目に逢ったのでしょう。是は実に可哀相な身の上だ。」
と却って憐れみを催した様子であった。



次(本篇)二

a:241 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花