巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma14

人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

since 2021.3.25


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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)十四 「窓に立つ一物」

 唯だ此の姿を見た許りで、丈夫は悟りも分別も忘れてしまった。冷淡にすれば好いと今が今まで思い詰めて居た事は、頭(てん)で思い出す暇も無い間に、肝腎の魂が身体を抜け出て槙子の傍へ行ってしまった。茫然と化学室の窓に立つ一物は丈夫では無い。丈夫の抜け殻である。

 何事にも気の附かない博士さえも、此の様を怪しんだと見え、同じく窓の所へ来て、
 「爾(そう)、爾」
と云って居る。此の語が初めて耳に入り漸く博士に振り向くと、
 博士「槙子は明日此の家を立って、ロンドンの道子の許へ行くのです。当分道子が預かって、一緒に旅行し度いと云いますから。」

 旅行と云えば当分居無くなるのだ。旅先ではきっと様々の人にも逢うで有ろう。こう思うと早や恨めしい様な気もする。
 丈夫「旅とは何所へ。」
 博士「爾(そう)、爾、何所とか聞いた様だが忘れました。行って槙子に聞いてお出でなさい。」

 聞いて来たいのは山々であるが、人の言葉を機会(しほ)に、
 「では聞いて来ましょう。」
と軽く駆け引きする事が、丈夫の気質では出来ない。行こうか行くまいかとの思案、他人なら些細な事だが、此の時の丈夫には大問題である。決し兼ねて胸に波が高く騒ぐ程である。

 博士「美しいでは有りませんか。年も未だ若いのに、後家を立て通させるのも可哀相です。旅すればその中には気の合う男にも逢い、再縁する様にも成りましょう。もう波太郎の事など、云ったとて仕方が無い。その方が当人の為でしょう。」

 故(わざ)と丈夫を辛がらせるかと思う程に聞こえる。今までは槙子の事に就いて、波太郎の名を聞けば、忽ち冷や水を浴びせられる様に感じたが、今は仲々波太郎の名ぐらいで、熱心さを冷却(さま)させることは出来ない。唯だ博士が槙子を再縁させる積りで居る事が気に掛る。

 全体何所の何者が、旅先で槙子に逢うだろう。何故自分がその者で無いだろうと、未だ極まりも何もしない事さえ、忌々しさの種になる。もう堪(こら)えようにも堪える力が無い。暫く経って後ち、
 「そうですか。旅立ちなら一寸お更(さら)ばを云って来ましょう。」

 自分では余程軽く云った積りで、化学室を出て、直ぐに槙子の傍へ行った。
 何故だか知らないが、槙子も丈夫に逢う時は必ず様子が違う。丁度丈夫が槙子と他の人を、区別無しに見る事が出来ない様に、槙子も丈夫と他の人を、区別して居るのでは無いだろうか。兎も角も、此の時槙子は眼を垂れて、赤ん坊の顔を見るに紛らし、暫し丈夫の顔に目を注ぐ事が出来なかった。

 丈夫「何所か旅にお立ちだ相ですが。それならば一度お分かれにーーー。お目に掛って置き度いと思いました。」
 槙子「ナニ旅立ちと云うほどでも。ロンドンに居る道子さんが、子供を連れて一月ほど温泉場へ行くから、一緒に来いと招いて下さったのです。」
 博士の云った様な旅行とは少し違う。

 「それはきっと嬉しい事でしょう。」
 槙子「ハイ私を此の様に云って呉れる親切が、何より有難いと思います。成るべくは温泉場から帰って後も、道子さんのロンドンの宅(うち)へ置いて戴く積りです。もう此の家(や)へは帰り度く有りません。」
と云い、少し澱んだ末、

 「貴方も大方はロンドンにお出ででしょう。」
と言い足した。その意味は同じロンドンなら心強いと云うので有ろうか。将(は)た又、同じロンドンだから折々尋ねて来て呉れと、誘うのだろうか。孰(いづ)れにしても憎く無い問では有る。

 丈夫「温泉場へ行けばきっと様々な人に逢って、新しい友達が沢山に御出来でしょう。」
 此の様な事は云うまいと思ったのに、独りで口から出た。ナニ新しい友達の沢山出来るのは構わないが、沢山の中に一人出来るのが辛いのだ。槙子は少し悲しそうに、

 「私にはお友達などは出来ませんよ。」
 丈夫「新しいお友達の為に、古い友達を忘れてはいけませんよ。」
 丈夫の口では是だけが関の山である。外の人が之を云えば、別に何の意味も無い言葉では有るが、丈夫が云うのは好く好くである。槙子も異様に力を込め、

 「決っして」
とのみ答えた。決して忘れないとの意味は明白である。丈夫は是れだけで早や、言う事の種が尽きた。辛いけれど分かれを告げる一方である。
 「では左様なら。」
と突然に云って槙子の手を求むる様に手を出した。槙子も
 「左様なら。」
と云い、赤ん坊を左の手に抱き替えて、右の手を握らせた。そうして直ちに家の方へ行ってしまった。

 後に立った丈夫の身には、槙子の姿と共に全世界が、自分独りを残して去ってしまう様な気がした。暫くはその所を動く事が出来なかった。知らず此の次には何の様な所で、何の様にして再び逢うのだろう。



次(本篇)十五

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