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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma16

人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)十六 「命と同じ問題」

 人の心は、変われば変わるもんだ。幾等美しくとも波太郎の妻で有った女を何で我が妻にする者かと、自分の母にも云ったその伴野丈夫が、今日は自ら縁談を言い込む為に、その槙子の住んで居る家の玄関を叩いて居るのだ。此の時の丈夫の心には、唯だ槙子に対する愛の外に何も無い。波太郎の妻などと云う事は思いも出さない。イヤ思い出したとて念頭に置く暇が無い。

 取次の者に大津槙子は居るか問うと、居るとの返事で先ず応接の間へ通された。暫く待つと槙子が入って来た。真に見る度に美しさの増すのは此の女だ。此の家に来てから、温泉場に行って自然とその身の保養を得たのみか、博士の家で輪子や風間夫人に窘(いじ)められて居るよりは苦労も少ないと見え、先に分かれた頃よりも顔色も晴れやかになって、今に自活の人になると云う勇気の為か、気分も引き立って居る様に見える。

 丈夫の方も今迄は槙子に接近する度に、我が心を隠さなけれ成らない為に、何と無く沈み勝ちで、笑顔などは露ほども浮かべた事が無かったけれど、今日は思うままを身にも言葉にも現して好い時だから、宛(まる)で籠から出た鳥の様な思いである。

 とは云え心配は心配だ。果たして此の目的が達するだろうか。又何の様に言い出せば好かろうかと、暫く槙子の顔を見る間に、胸の中に波が打ち始めた。口も用意には開く事が出来ない。槙子の方はその様な重大な面会とも知らないから、
 「好く尋ねて下さいました。」
と軽く挨拶し、手を出して握らせた。

 丈夫は之を握ると共に、身体中に一種の電気が伝わった様に感じて、嬉しさが魂の奥底をまで揺るがせた。此のまま此の手を離さずに居ようか知らんと、一時は此の様にも思ったけれど直ぐに放した。唯だ通例の握礼よりは少し長かったが、槙子は気も附かない様子で、

 「同じロンドンに居らっしゃるから、折々尋ねて下さるかと思いましたのに、其の様な事が有りませんから、もう貴方に忘れられた事と思いました。」
 丈夫は単に「イイエ」と答えた。

 この様な言葉のきっかけに乗じて、早く言い出さなければ-ーー、たとえ言い出さなくても、言葉を我が目的の方へ向けて行かなければーーー益々言い出し憎くなると腹の中では燥(あせ)るけれど、其の掛け引きが出来ないのだ。自分ながら悶(じれ)ったい様である。槙子の方は遽(あわ)ても騒ぎもせず、

 「私はもうプルードへは帰りませんよ。実は看護婦になるのです。鈴子さんが先達て医術の試験に及第しまして、もう遠からず開業すると云いますから、私が看護婦になれば丁度好いのです。雇い先は鈴子さんが見つけて下さる約束です。」
と殆ど勇ましい程に話始めたが、丈夫は厳重な顔に、何だか不賛成な色が見えるので、

 「イイエ、私は今まで少しも人の為と云う事を計った事が無く、唯だ自分の事ばかりに気を取られる豪州の様な所に居まして、此の国へ来て、人様の親切な様を見、目の覚めた様に思います。今更ら遅れては居ましても、切めては病人の為にでも成り度いと思いまして。」

 丈夫は突然に槙子の手を把(とら)えた。そうして熱心に、
 「お止しなさい。お止しなさい。」
と叫んだ。槙子は驚いて唯だ丈夫の顔を見る許かりだ。丈夫はもう夢中の様である。死を決して騎兵が敵軍に突貫する時も、此の様な気持ちだろうか。

 四辺(あたり)の事情も何にも彼も打ち忘れ、唯だ目的に猛進するのだ。思う丈の事が一時に口を衝いて出た。
 「その様な事は止めて、何うか私と婚礼して下さい。貧しい此の丈夫の妻に成って下さい。今日はその為に来たのです。人の為などは私が二人分尽くしますから、私と生涯を一つにして下さい。」

 槙子の驚き方は、全く譬(たと)え様も無い程である。目を見張って丈夫の顔を眺める外、何事をも為す事が出来ない様子である。丈夫は猶(なお)も夢中で、
 「貴女がいけないと仰有(おっしゃ)れば、私の生涯はここに尽きるのです。丈夫は此の世に何の力も、何の頼みも無い人と為ってしまいます。何うか私にその様な失望をさせずに、妻になると承知して下さい。」

 日頃は誰よりも落ち着いた男であるのに、此の様な事に掛けては誰ほども落ち着く事が出来ないと見える。
 槙子の初めての言葉は、
 「貴方は本当に喫驚(びっくり)させましたよ。」
と云うに在った。嘘では無い。全く此の突然の申し込みに、喫驚(びっくり)して、返事の出しようも知らない様である。

 けれど丈夫の心は分かったらしい。此の言葉と共にその顔は火の燃える色になり、そうして又次第に灰の様に青くなった。余ぽど神経が感じた事は分かる。
 丈夫「そうでしょう。驚喫(びっくり)は成さったでしょうが、私の為には命と同じ問題です。何うか私の言い様が悪いなどと云わずに、唯だ心を察して下さい。
 今が今、直ぐに返事が出来ないなら、少しお考えて後でも宜しい。何うか「否」と云う事だけは云わない様に、此の丈夫の生涯を救う事と思って、否でも応と云って下さい。」

 不束(ふつつか)では有るけれど、総ての様子に現れた丈夫の熱心は、木石でも見て取らない譯には行かない。見て取れば感動しない譯に行かない。正直な心から爆発する噴火である。真誠に人を動かすのは、此の様な誠意に在るのだ。決して言葉の巧者や掛け引きの上手の所に在るのでは無い。

 取り分けて槙子は、丈夫の日頃を知る丈に、猶更深く感動した。
 槙子の目には涙が浮かんだ。此の時直ぐに返事したなら、必ず、
 「ハイ貴女の妻になりましょう。」
と云うに在っただろう。その言葉が殆ど槙子の口を離れ相に見えたが、その見えた瞬間に忽(たちま)ち何事をか思い出したと見え、何とも言えない絶望の色を浮かべた。そうして途切れ、途切れて咽(むせ)ぶ声で、

 「お許し下さい。それは何しても出来ない事です。」
と絶叫した。



次(本篇)十七

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