hitonotuma19
人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)
バアサ・エム・クレイ女史 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。
since 2021.3.30
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人の妻 バアサ・エム・クレイ女史 作 黒岩涙香 訳
(本篇)十九 「喜ぶか悲しむか」
成る丈早く婚礼の日を取決めようと云う丈夫の望みに対し、槙子は柔順(すなお)に、
「その邊の事は阿母(おっか)さんと貴方とで、宜しい様に取り決めて戴きましょう。」
もう何も彼も丈夫を頼りにして、全く打ち任せて居るのだ。是れで先ず槙子と丈夫との間は、愈々(いよいよ)夫婦と云う事に一段落が着いた。
是まで槙子は、極稀れにしか寡婦の頭巾を被(かぶ)らなかったが、看護婦の稽古を初めてからは、鈴子の勧めで絶えずそれを被る事と為り、今丈夫の前でも矢張り被って居る。丈夫はこう話が決まると共に、
「もう此の様な物に用事は無いでしょう。」
と云い、手ずからその頭巾を、槙子の頭から取捨てた。
全くの所、此の頭巾の有る中は、前の夫を忘れる事が出来ない筈で、云はば波太郎へ義理を立てて居る様な者だから、丈夫に取っては何と無く目障りだ。否寧ろ嫉(ねた)ましい様に感じられる。彼は先刻、
「過ぎ去った事は互いに言いっこ無し。」
と云ったけれど、此の点に付いて一言云わない譯には行かない。
「貴女は矢張り、私の様に彼を愛したでしょうね。」
実に未練な問いでは有る。自分でも未練と知って居て、そうして控えて置く事が出来ない。
槙子は、
「エ、彼れをとは」
と合点の行かない様に問返したが、丈夫の顔色を見て忽ち悟り、
「アア波太郎の事ですか。イイエ、私は彼れを憎みました。初めから終わりまで。憎まない時とては少しも無かったのです。何うか彼の事の為に、不安な思いなど為さらない様にして下さい。」
全く真情から溢れる言葉ではある。何時も槙子が波太郎の事を云う時は、(めったに云う時は無いけれど)何故だか此の通りに烈(はげ)しいのだ。是で見ると、自分の夫とは仕ながらも、余ほど憎んだに違いない。
丈夫「憎んだなら何故彼と結婚したのです。」
丈夫の言葉は殆ど厳重である。
槙子「その事ばかりは何うか問わない様に成さって下さい。大津波太郎の名は、是限りで云わない様に、ハイ、彼が曾て此の世に居た事をさえ、何うか忘れてしまって下さい。」
丈夫「では彼を愛しはしなかったと云うのですね。」
槙子「決して、決して。ハイ貴方の外は、誰をも愛した事が無いのです。是だけを申せば御合点になりましょう。此の言葉を充分と思し召して、何うか彼の事は二度と再び仰有らない様に願います。」
柔順(おとな)しい気質にも似ず強く云う。多分は丈夫に充分な安心を与え度い一心から出るのだろうが、それにしても何だか異様だ。幾等夫が波太郎の様な悪人にしても、妻の身で之を憎んだとは穏やかでは無い。憎い男と結婚するとは、宛(あたか)もその男に奴隷として買い取られる様な者で、身を汚すにも斉(ひと)しいと丈夫は、此の様に思って居る。
寧ろ娘心に初めは波太郎を愛しましたとか、彼れの地金の分かるまで、彼れを善人と思いましたとか云って呉れる方が、丈夫には承知が出来易い。丈夫は眉を顰めない許りの様で、
「それでは貴女は、波太郎と結婚しないのが相当でした。結婚しては成らない男と結婚したのです。」
槙子は忽(たちま)ち泣き出した。
「それだから私は今までは、汚らわしいと云うのです。それよりも最(もっ)と大きな悪事が有るのです。」
丈夫「ナニ悪事と云う譯では有りませんが。」
槙子「イイエ、貴方は、何の様な有様で私が育つたのか、それをさえ御存知ないから、お分かりに成らないのです。私の父は人を欺(だま)したり、約束を破ったり、詐欺の様な事ばかりして暮らして居ました。私と「まっちゃん」とはその様な中で育てられた者ですから、此の国へ来る迄は、何が善、何が悪、その様な区別も知らず、人を欺(だま)すのを好い事の様に、ハイ世を渡るには欺す事から稽古して掛からなければ成らない様に教えられ、父は常に、
「正直にするのは損だ。」
と云って居ました。ほんに私の身は、間違った事ばかりです。」
と云って、殆ど顔も上げる事が出来ない様子である。丈夫は是れを見て急に我が言葉の過ぎたのを悔い、
「イヤ槙子さん、許して下さい。貴女がそこまで不幸な境遇に育ったとは思わない為め、ツイ問過ぎました。」
漸くに槙子は首を上げ、更に心配そうに、
「私の悪事と云う事が、是で大方御推量がーーーー。」
と云い掛け更に、
「貴方の様な立派な方の妻には成れない身と云う事が、お分かりでしょう。」
と言い直した。
丈夫には未だ少し分からない。
「イイエ、その様な不幸ばかり経たのだから、猶更私が大事にして、今までの埋め合わせをさせて上げ度いのです。」
槙子「でも貴方の阿母(おっか)さんが聞けば何と仰有(おっしゃ)りましょう。」
丈夫「歓ぶに決まって居ます。」
槙子「同じ貴族の娘で無くてはいけないとか、槙子の素性は汚らわしいとか、仰有りはしませんでしょうか。」
丈夫「何でその様な事を云いましょう。私の喜ぶ事なら母は何でも嬉しがります。」
事も無げに云いはしても、何だか心の底に、槙子の素性がモッと良く分かれば好いのにとの念が少しある。今にその良く分かる時は来るだろうが、唯だその時に驚いて喜ぶか、驚いて悲しむか疑問である。
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