巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma22

人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)二十二 「余ほどの深山は」

 輪子の此の手紙は翌日ロンドンへ着いたけれど、実際丈夫の手で封切ったのは、その又翌日の朝であった。読むと何か大切な用事の為、是非逢い度いと有るので、丈夫は何事だろうと怪しみつつ母御に示すと、母御は何にしても、槙子の為になる事とは思われないから、その積りで用心して掛るが好いと云われた。流石に眼力は確かである。

 此の日直ぐに、丈夫は母と槙子を同道してブルードへ帰った。是れは母御がロンドンへ行く時から決まって居る事柄だ。兎も角槙子をロンドンから連れて来て、一週間ほど我が手許へ置いて見たいと云うのが、母御の望みである。その一週間に素性などを聞きもし、又行き届かない所は其々注意を与えて遣りなどする積りなのだ。

 母親無しに育った女だから、母御が母親の代わりに様々の注意を与えるのは、此の家の嫁とするのに全く必要な事だろう。槙子に於いても有り難く思わなければ成らない。

 それはさて置き、丈夫は直ぐに輪子の許を尋ねた。心の中では、是が輪子との最後の面会だろうと云う程に思って居る。輪子は前以て待ち受けて居た所だから、充分に着飾って出迎えた。今更ら幾等着飾ったところで、丈夫の心が自分の方へ寝返るだろうとは思わないけれど、槙子より劣る様に見られるのは如何にも悔しい。

 何にしても、此の面会で充分に恨みを述べ、槙子の素性を罵(のの)しって、出来ることなら縁談の破れる程にも仕度い。此の目的の為には随分泣きもしなければならないと思い、涙を拭う手巾(ハンケチ)まで用意して居る。

 やがて丈夫の前へ席に就くや、最初の言葉が、
 「貴方は良くまあ、平気でその様に私の前へ来られましたねえ。男は心無しだと云う事が、今と云う今は全く思い知りました。」
と云うので無論末の方は泣き声であった。丈夫は例に依って真面目である。
 「貴女が是非来いと仰有るので、イヤお手紙の文句をその様に解しましたので来たのですが。」

 輪子「私の父が若し世間並みの父なら、決して自分の娘を此の様な恥ずかしい目には逢わせません。切めて兄でも有れば、豈夫(よも)や貴方も此の様に私を踏み附けには成さるまいに。」
 勿論初めの泣き声を受け継いで、旨くその度を進めて来る。イヤ旨くと云う譯では無い、是れは全く自然に出る泣き声かも知れない。随分泣くーーに足らない所で泣くーー様な女だから。

 丈夫「貴女を踏み附けにとは、私の何の様な振る舞いを指すのですか。私は少しも貴女の父兄に聞かれて、咎められる様な事はして居ない積りですが。」

 輪子「アレ彼の様に空とぼけた事を仰有る。アアそうでしょう。そうでしょう。貴方の様な心無しは、今までの成され方を当たり前だとお思いでしょう。世間知らずの私を、散々に機嫌を取り、そうして私の心がーーオオ恥ずかしい、全く貴方に傾けてしまって置いて、そうして知らない顔で余所へ振り向き、私の家の厄介者に結婚を申し込むとは、外の人なら女の心を偸(ぬす)むと云う者ですけれど、貴女には当たり前でしょう。踏み附けにしたのでも何でもお有り成さらないでしょうよ。」

 用意の手巾(ハンケチ)が果たして顔に当たった。そうして肩から背の辺りへ、規則通りに忍び泣きの浪が打って居る。
 丈夫「怪(け)しからぬ事を仰有る。多分私の心を誤解成さったのでは有りませんか。」

 輪子は忽ち手巾を顔から取除け、
 「誤解では有りません。貴方は私の目の前で、曾て私を愛した事は無いとと言い切る事が出来ますか。」
 丈夫「正直に言い切ります。貴方を愛した事は有りません。」

 輪子「では初めの頃、私へアノ様に親切に成さったは何の為です。」
 女が此の様に、男へ詰問に及ぶ事は余り例の無い所である。
 丈夫「イヤその頃は貴女を、余ほど心根の高い令嬢と思い、深く尊敬しましたから、自然挙動が親切には成りましたが。」

 輪子「今は私を心根の高い女とは思わないのですか。」
 丈夫「イヤその様な事はお返事すべきでは有りません。」
 輪子「ではアノ手紙の遣り取りを何と弁解なされます。乙女の胸の中は神聖だとさえ云うでは有りませんか。親兄弟にさえ打ち明けない胸の中を、幾度も幾度も手紙で以て打ち明けさせ、そうしてーーー。」

 丈夫「イヤ少しお待ち下さい。アノ手紙は、風間夫人が書いたので、貴女の心を籠めたのでは有りませんが。」
 足元に地雷火が破裂してもこうまでは驚かない。輪子は全く余程の深山で稀に聞く様に咆(ほ)えた。

 「エエ悔しい。恨めしい。誰がその様な事を云いました。」
 丈夫「風間夫人自身から私は聞きました。」
 輪子「エ、風間夫人自身が、エエ恩知らずめ。彼奴(あいつ)の肉を八つ裂きにしても足らぬ。」
 確かに人肉を八つ裂きにして食う邊(ほとり)の声だ。

 丈夫「イヤ風間夫人としても故意に打ち明けた譯では無く、私がアノ手紙の文章を褒めましたら、実はとてアノ頃の事を詳しくお話でした。けれどナニそれを聞いたが為に、私の心が何うなったと云う譯では無く、別に私は驚きもしませんでした。」

 兎も角も此の一事で詰問の鉾先(ほこさき)は挫けて仕舞った。丈夫は最早や深山に飽きたと云う風で分かれを告げようとすると、輪子は未だ肝腎の槙子の事を一言も云って無いのだから慌てて、

 「それを驚かない程なら貴方は槙子が、強姦に怪我された女だと聞いても勿論驚きは成さらないでしょう。」
と兼ねてから研ぎ立てて居た毒深い爪を出した。此の毒爪で丈夫に何れ程の手傷を負わせる事やら。



次(本篇)二十 三

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