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人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

since 2021.4. 5


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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)二十五 「玉と泥」

 吁(ああ)本当に槙子は、まだ何故にこれ程まで、咎められるのだろうかと、是れも合点が行かない様子である。
 「でも丈夫さんは、先刻輪子さんの所からお帰りの時、その事を聞いて来たでしょうけれど、別に御立腹の様子は見えませんでしたが。」

 母御「それは見え無い筈ですよ。豈夫(よも)や此の様な事が誠とは思いませんから。」
 槙子「誠と思えば余程御立腹成さるでしょうか。それほど違いの有る事でしょうか。」

 人の妻である事と、野合者《正式に結婚せずに男女が関係すること》である事とを、それほど違いが有ろうかとは、玉と泥との違いを問う様な者である。余りの事に、若しや何かの間違いでは無いだろうかとの疑いが、母御の胸に薄雲の様に掛った。けれど全く薄雲である。長くは掛って居いない。直ぐに消えた。イヤ消えないにしても、長くその疑いに、気を揉んで居る場合では無い。

 「何うして貴女は、その様な事が問われます。私の息子丈夫は、名誉にも素性にも全く無傷の男です。此の様な事情と分かれば、何して貴女を妻にする事が出来ましょう。私し初め承知する事は出来ません。汚れた婚礼をするよりは、寧(いっ)そ死んで呉れた方が好いと私は思います。」

 母御は驚きが強いと共に言葉も強い。悔し涙がその頬を伝って居る。
 槙子の方は、婚礼が出来ないと聞いて、声を放って泣いた。
 「此の国へ来ますまで、私の身は、何が善、何が悪と云う事も良く知らず、人を欺(だま)すのが手柄の様に教えられて育ちましたので、今思うと気が引ける事ばかりでは有りますが、それでも、何とか丈夫さんが許して下さる様に思われます。

 私を丈夫さんにお逢わせ下さい。是からロンドンへ遣って下さい。お目に掛って良く話せば、何所かに、許しても好いと仰有って下さる所が、確かに有るだろうと思います。」
 まだ此の様な事を云って居る。母御は今までの驚きが、殆ど腹立たしさと為ろうとして、

 「貴女の考えは余りです。今少し善悪の区別が分からなければ、丈夫に逢わせる事が出来ません。」
 少しの余地をさえも与えない。此の様な事に掛けては、流石は貴族の家内を守って来た昔気質である。槙子は泣き入って、

 「余(あんま)りです。余(あんま)りです。では大津博士も、道子さんも、鈴子さんも、皆もう私に愛想をお尽かし成さるでしょうか。それでは生きて居る甲斐も有りません。」

 可哀相では有るけれど仕方が無い。その様な汚れた身と分かる日には、幾等寛大な博士だとしても、失望せずには居られない筈だ。母御は少しの間に又少し憐れを催し、言葉を幾分か和らげて、

 「それは誰であっても、此の事を聞き知っては、好い顔はしないでしょう。けれど真逆(まさ)か博士が、是れ限り貴女を見捨てて、構い付けないと云う事はしないでしょう。幾等貴女が婚礼は経ないにしても、自分では波太郎の妻と思い、その胤をまで生み落とした事ですもの。」
と言い来るのを聞いて、槙子は初めて合点が行った様である。

 今までは母御の言葉の意味をば、此の様には解せずに問答して居たのだ。槙子は身を支える事が出来ない程に驚いた。そうして母御よりも一層驚き恐れの色を現わし、

 「エ、エ、エ、今まで貴女の仰有ったのはその様な疑いでしたか。私が正式の婚礼も経ずに、波太郎の妻で有ったと。オオ恐ろしい。その様な汚らわしい疑いを受けるのも、矢張り私がーーハイ私が悪いからです。それで今まで貴女の仰有った事も、漸(ようや)く合点が行きました。」

 言葉は未だ尽きないけれど、余り心の激動した為め、全く堪(こら)える事が出来なくなったと見え、槙子は、
 「エエ汚らわしい」
と叫びつつ悶(もだ)えて気絶した。

 さては我が言葉の意を誤解して居たので有ったかと、母御も初めて腑に落ちた様な気がした。その誤解が果たして何所に在ったかは、今までの問答を一々思い返しても分からないけれど、何さま誤解が何の邊かに在ったには違い無い。そうであろう。そうでも無ければ、槙子の言葉も一々合点が行かない事ばかりで有った。

 母御は双方誤解の為に、こうまで槙子を苦しめたかと思うと、年甲斐も無い事と、急に自分の身を責めて、槙子に対し済まない思いに耐えられなかった。槙子は決して玉と泥との区別の分からない女では無い。気絶する際にまで、
 「汚らわしい。汚らわしい。」
と叫んだので、その心は分かって居る。

 正式の妻で有って、却ってそうで無かった様に疑われては、我が身としても、此の通りに叫んで此の通りに気絶するだろうと、母御は少しの間に何も彼も見て取って、唯だ後悔の一念に、槙子の身にしがみ附き、
 「許してお呉れ、許してお呉れ。」
と云って抱き起して介抱した。



次(本篇)二十六

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