巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma29

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)二十九 「化学室」

 出来ぬ先から博士が是ほど嬉しがって居る縁談を、丈夫の母御が横合いから邪魔する謂(いわ)れは勿論無い。取り分け博士の妻と為る当人の内山夫人に取って、此の上無い仕合わせの事だから、母御は満腹の同情を以て賛成し、

 「私も大方は貴方と同様に嬉しく思い、何うか目出度く纏(まと)まる事を祈ります。今内山夫人を之へ呼びますから、直に貴方から仰有(おっしゃ)って御覧なさい。」
 若い人の恋とは違い、別に詩趣とやら云う者は無い、何と無く事務的の性質を帯びて居る。

 博士は、
 「イヤ貴女さえ承知して下されば、後は私が自分で運びます。内山夫人は例(いつ)もの通り今二階に居られますか。」
と云い、先ず召使の女を送り、大切な用事の為、お目に掛り度いとの旨を通じて置いて、そうして召使の女が下って来るのを待ち兼ねて、博士自ら上がって行ったが、凡そ卅分ほども経て、前よりも更に嬉しそうな顔で降りて来た。

 聞く迄も無く事の結果は分かって居る。けれど博士の方で聞かさずには居られない。
 「夫人、夫人、喜んで下さい。イイエ、中々応じて呉れませんでしたけれど、良く問詰めると、私を嫌うのでは無く、風間夫人や輪子と肌が合わないから、後妻が出来ては、家が治まらないだろうし、治まらないと知って、後妻と為るよりは、矢張り独身で此の家に居るのが、安楽だと云うに在ったのです。

 けれど私は兼ねてから、愈々(いよいよ)婚礼すれば、輪子と風間夫人とはロンドンの道子の許へ預ける積りですから、その事を打ち明けました。その上に私は実に旨い事を云いましたよ、内山夫人に向かってね。
 「今に丈夫さんが槙子と婚礼し、ロンドンにでも住む事になれば、伴野夫人が此の土地に居て淋しいから、貴女と共に夫人をも私の家へ来て戴きます。」
と。

 是で漸(よ)うやく承諾を得たのです。ネエ夫人、内山夫人が妻と為って私の家へ来る時には、貴女も何か客分になり、お年は私より下かも知れませんけれど、私共夫婦の母の様に、何うか私の家に来て、一緒にお住み下さい。」
と他事も無く乞うた。実に断わり難い程の誠意が現れて居るので、母御も無気(むげ)には拒みもせず、

 「その時は又その時の様に致しましょう。」
と答えた。
 何しろ博士は上々の機嫌で、日頃憎む時間の立つ事さえ忘れ、終に此の家で晩餐の馳走にまで與(あず)かった。それはさて置いて、博士の留守では風間夫人が大変な心配である。何でも博士が、自分の競争者とも云うべき内山夫人の許へ行った事は、狩り犬が獲物の行方を嗅ぎ知る様に、夫人は風の匂いで知っているのだが、晩餐の刻限に成っても帰って来ないのは、決して吉(好)い前兆では無い。

 食堂へ入って食卓に着きながら、凡そ一時間ほどは箸を取らずに待って居たけれど、此の風間夫人の一つの弱点は、貧乏を良く耐(こら)える事が出来ないのと同じく、腹の空いたのを耐(こら)える事が出来ない。その上に食う時は、二人前ほど喰う。此の点は貴婦人らしく無い。殆ど馬らしいと云っても好い。

 初めの程は壁の時計を眺めては、ウンウンと呻いて居たが、終に待ち切れ無くなって箸を取り、今まで我慢した反動で単に皿だけを残した。
 それでも未だ博士が帰らないから、果ては、日頃相手にも足りないと思って居る輪子に向かひ、心配の言葉を洩らした。
 「今まで阿父(おとう)さんは、夕食の刻限まで帰らない事は無いのに、何う成さったのでしょうねえ。」

 輪子は先程から夫人の煩悶する様を見て、好い気味だと窃(密)かに一方ならず喜んで居るのだが、更にその上を針で突く様に、
 「宜(い)いでは有りませんか。先刻のお話では、貴女と縁談が出来たと云いますもの。真逆に此の国で二人の妻は持つ事は出来ません。内山夫人へ縁談を申し込んで居る譯でも有りますまい。」

 夫人の内心には、何でもその縁談を申し込んで居るに違いないと迄に思って居る。それとも或いは、帰って来て化学室へでも閉じ籠って居るかも知れないと、念の為に検(あらた)めに行く気に成った。輪子の顔を腹立たしく睨んで置いてここを立ち、化学室へ行って見ると、オヤ内に灯が点いて居る。
 その実、博士は少し前に帰って来たけれど、最う内山夫人との婚礼の日まで成る丈け此の部屋に引き籠り、風間夫人とは逢はない様にする決心であるのだ。夫人は灯の点いて居るのを見て少し安心し、急にガラス戸を鏡にして自分の頭を撫でたり、衣紋を作ったりなどして、化学室の中に入り、

 「余り遅いからお迎へに出ようかと思って居ました。」
 迎えになど来られて溜まる者か。
 博士「ナニ先刻帰へりましたけれど、化学の試験が忙しいのでーーー」
 夫人「若しお食事までも忘れてお出ででは有りませんか。」
 博士「イイエ、食事は済みました。此の通り一生懸命に試験して居るのです。」

 成るほど忙しそうに、色んな液体の入った瓶を彼れ是れと並べて居る。
 夫人「アレ先ア、其の様にお急ぎなら、私を呼んでお手伝させ下されば宜しいのに。最う何も他人行儀は要らないでは有りませんか。」
 全く女房気取りとは此の事だろう。

 博士「貴女は化学の事などがお好きですか。」
 夫人「良くは知らないけれど、大好きです。化学と天文とは、幼いころ女学校でも常に教師に褒められましたよ。今は忘れて、良くは出来ませんけれど、教えてさえ下されば直に覚えます。」

 嘘ばかり云って居るが、博士は見掛けよりも工夫に富んだ人である。心の中でその手には乗らないと呟きつつ、
 「では何うか此の瓶の液を、三滴ほど其方の液へ垂らし込んで下さい。」
 何やらん薬瓶の様な者を指し示した。夫人はもう全くその身を、妻の様に思い、隔て無く仕向けて呉れる事に成ったと見て、多年の大願が愈々(いよいよ)届く時が来た様に思い、

 「タッた三滴で好いのですか。」
と嬉しさを問うに紛らせた。
 博士「ナニ一滴や二滴過ぎたとて構いません。実は多い程効き目が有りますから。」
と云い袖口の蔭でコッそり笑った。

 夫人はそうとも知らず、先ず手際良く一滴を垂らすと、瓶の中の液が忽(たちま)ち沸く様に化合を始め、それと同時に、鼻持ちの成らない、悪い臭いが瓶の中から夫人の顔へ蒸し上(あが)った。



次(本篇)三十

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