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hitonotuma32

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

since 2021.4. 11


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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)三十二 「言い切る事の出来ぬ事」

 その頃なんです、波太郎が現れて、何の様に此の槙子と、夫婦に成ったのかと思えば。
 丈夫は聊か耳を澄ました。
 けれど之に引き替えて槙子は如何にも言い難くそうである。今まででも何だか言い難くそうには見えたけれど、更に一層言葉が重く成って来た。

 そうして槙子は、自分の言葉の一句一句に、余ほど用心を加えて居る。云はば思想の緻密な罪人が、重い旧悪を包んで置いて、唯だその軽い所だけを白状する様な状態である。只の一語でも、良く考えた上で無ければ発しない。真に言葉を一粒選りにして居るのだ。

 「それから間も無く結婚る事に成ったのです。」
 現れたのと結婚との間に、何か云うべき事が有り相なのに、何も云わない。その様子が、宛(あたか)も言い度いけれど、云う事が出来ない様子である。何しろ余りに唐突な様に聞こえる。けれど槙子の言葉は全く此の通りである。

 「結婚から僅かに半月ほど経て、「まっちゃん」と私とに取り、此の上も無い不幸な事が出来ました。それは父上が急病で亡くなられたのです。父は本当に不行き届きな事ばかりでは有りましたが、私共二人を大事に思って、保護して呉れる事は、世間の親達よりも遥かに熱心でした。
 或時は「まっちゃん」の為に波太郎の胸へ、短銃(ピストル)を差し向けた事さえ有ったのです。」

 サア分からない。「まっちゃん」の為に、父がその姉槙子の夫へ短銃を差し向けるとは何の様な事柄だろう。丈夫は何事をも問い返さずに、無言(だま)って、そうして少しも耳を傾けない振りで聴いて居るのだ。此の言葉を聞いて、さては彼の波太郎め、槙子と結婚して居ながら、その妹「まっちゃん」へ、戯れでもしたのだろうかと、丈夫は思った。

 そうだ、その様な事に違い無い。それを父が立腹したのだ。
 「父が亡くなって見れば、「まっちゃん」も私も、全く波太郎の手の中に握られて居る様な者です。波太郎が何の様な事をしても、之を防いでくれる人は無いのです。」

 愈々(いよいよ)丈夫の推量が当たって居るらしい。
 「継母は父の葬式さえ出来ないと云って、死骸を捨てて逃げ去りました。たとえ逃げ去らずに居て呉れたとしても、波太郎を制する程の力は無いのです。私しの言葉などは少しも聞かず、波太郎の言葉には、何から何まで従って、ハイ初めから波太郎の機嫌を伺って許かり居て、それで物事を決める様な状態でしたから。」

 何だか此邊に事情が有り相である。
 「それゆえ、波太郎と私共姉妹と三人で父の葬式は済ませましたが、是からは波太郎が、一家の主人同様になりました。彼の我儘(わがまま)や、不行作や、何れほど私は彼と争いましただろう。真に悪人とは、此の様な人だろうかと思いました。

 生憎(あいにく)「まっちゃん」は私と気質が違い、それに継母の薫陶を受けて、物事を真面目に考えると云う事が無く、何事でも唯だその日さえ、その場さえ良く行けば好い様に思って居る性(たち)でしたから、波太郎の不行跡が益々募る許かりでした。何れほど私は波太郎を憎みましたろう。」

 丈夫は愈々(いよいよ)自分の推量の当たって居る事を知った。イヤ知ったでは無い、感じたのだ。是れで見ると槙子がその身の悪事と云うのは、槙子自身の悪事では無くて、何か波太郎と「まっちゃん」との悪事なのだ。

 それを隠して居る為に、常に自分で非常な悪事でも、隠して居る様に気が咎めるのだと、此の様に思って、却(かえ)って槙子を尊信する念が強くなった。イヤ強くなる余地の無いほど、既に尊信して居るけれど、余地さえ有れば、必ず強くなる所なのだ。

 「それから波太郎は、山崩れの為め汽車で死にました。」
 此の邊の話は、もっと詳しく無くては成らないのに、詳しく無い。多分は「まっちゃん」も波太郎と共に死んだのだ。槙子を一人家に残し波太郎と手に手を取って同じ汽車に乗って居たのだ。

 槙子は是まで話て、ジッと丈夫の顔を見た。是だけの言葉で丈夫が何も彼も察しただろうかと、その顔色を読むので有ろうか、或いは察して呉れと暗に訴えるので有ろうか。
 何にしても、自分の口から、何うも明らかに言い切る事の出来ない所が有るのだ。

 それを言い切らなければ、今日故々(わざわざ)丈夫に素性を打ち明ける甲斐も無いのだから、言い切り度くも有るけれど、その勇気が無い。言い切らなければ済まない、済まないと、徒に心の中に煩悶して居るらしい。

 丈夫の顔は全く槙子の清浄潔白を見て取って、非常に安心した様子である。心底から喜ばしそうである。此の顔に対しては、打ち明ける心が鈍る許かりだ。これ程までこの私を信じて呉れる人に、何うして汚らわしい事が有りのままに言葉に出されようか。

 寧(い)っそ邪険に此の身を疑って呉れる人なら、何事も言い易すかろうにと、槙子は此の様にまで思う。
 そうして言葉は又一段を飛び越えて、
 「是で貴方の妻には不似合いな、汚らわしい素性の女と、お分かりになりましたろう。」
と恐々(こわごわ)の様に問うその心根は寧ろ可憐である。



次(本篇)三十三

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