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hitonotuma38

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

since 2021.4. 18


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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)三十八 「春山一家」

 「春山一家と云えば随分名誉の高い家で、その一門には伯爵だの子爵だのと言って、今現に社交界に時めいて居る人も数名は有る。取り分け竹子の方と云えば、男子からも女子からも共に尊敬せられて居る人である。我が妻の槙子がその竹子の方の実の姪で、しかも此の通りその方から尋ねられて居るとは、実に驚かずには居られないのだ。

 槙子が此の希望広告を見た事は勿論である。先頃から鬱(ふさ)いで居るのも之が為なのだ。先日新聞紙を見て泣いて居たのも、矢張り之が為だ。それを何故私にまで隠したのだろう。丈夫は忙しくそれ是れを思い合わせて、心の中は旋風(つむじかぜ)の巻く様である。

 日頃に似合わず、少しも落ち着く事が出来ない。世辞たらたらと喋って居る、風間夫人を突き飛ばす様に振り捨て、我が宿へ馳せて入った。そうして槙子の前に突っ立った。
 その様子が余りに変わって居るので、
 「貴方は何うか成さったか。」
と槙子は問うた。

 丈夫「ナニ私は何うしたのでも無いが、和女(そなた)こそ何うかしたのか。」
と云い、ようやく座に着いて、
 「和女(そなた)は、春山竹子と云う伯母御から、新聞紙上で尋ねられて居る事を、前から知って居るのでは無いか。何だってそれを今まで。」

 槙子は軽く笑みを浮かべた。或いは笑みに紛らせる為だろうか。そうして云った。
 「貴方も希望広告を御覧成さったと見えますね。」
 丈夫「見ないで何としよう。イヤ何時まで見ずに居られる者か。世間の人さえ噂して居る程だもの。」

 槙子「イイエ、私も先達てから色々考えましたが、今日は貴方に御相談しようと思って居ました。」」
 丈夫「ナニ今日はーー今日初めて相談するとは、余り遅いぢゃ無いか。何故今日まで黙って居た。」

 尤も千萬な問いに逢って、槙子は少し極まり悪そうである。
 「ハイそうでは有りますけれども、それは人違いででも有っては。」
 丈夫「イヤ何所に。人違いの筈は無い。和女(そなた)が常に「まっちゃん」と云ったのは希望広告に有る松子の事だろう。和女の姓が春山では無いか。そうして父は桂造と云ったのだろう。」

 槙子「ハイ」
 丈夫「では何所に間違いなどの恐れが有る。和女は春山桂造の娘では無いか。十数年前に父に連れられ豪州(オーストラリア)へ行ったのでは無いか。」
 槙子「それはそうですけれど、私の方に、別に是と云う証拠が無く、たとえ有った所で、是を見て疑いをお解き下さいと云う様な物が有りませんから。私は今までいっそ無言で居るのが好いだろうと、此の様にも思いました。」

 成るほど槙子の気質としては、そうかも知れない。けれど余り人情に遠い仕方だ。
 丈夫「証拠の有る無しは、云っては居られない。和女(そなた)が覚えて居る丈の事を云えば、嘘と誠とは聞く方で好く分かる。和女は先ず伯母御に逢って、日頃父から聞いて居る話などをして見るのが肝腎だ。父から此の様な伯母が有るとか、此の様な親類が有るとか、常日頃から聞いた事が有るだろう。」

 槙子は悄然として打ち凋(しお)れた。
 「イイエ、父は唯だ親類の事を、憎く相に云う事は有りましたけれど、別に事情を話した事は有りません。唯だ亡くなります一週間前に、私と父と唯一人、差し向かいと為りました時、父は何だか後悔した様子で、

 「アア今まで親類を恨んだのは俺が悪かった。俺の根性が拗(ねじ)けて居る為に、恨む事でも無い事を恨んで、此の年月、和女(そなた)等にまで苦労を掛けた。俺の方から訪れさえすれば、先では少しも俺を恨んでなど居ないから、直ぐに元の通りの親類に成れるのだ。

 今までの事は勘弁して呉れ。娘よ、遠からず英国へ引き揚げて、和女(そなた)達を元の身分に直して遣るからと、涙ながらに云いました。後にも先にも、身の上話は此の外に成さった事が有りません。そうしてその翌日からは唯だ鬱(ふさ)ぎ込んで許り居て、旅費の工面さえ附けばなどとお呟き成さった事を、私は聞きました。

 けれどその日の生計にさえ差し支える中で、旅費の出来る筈も有りませず、間も無く脳卒中とやらで亡くなられました。」
 丈夫「でも和女(そなた)は、竹子と云う伯母さんの有った事は、知って居た様子だが。」

 槙子「それは薄々と記憶して居たのです。竹子伯母さんが私と「まっちゃん」とを大層可愛がって呉れましたから。」
 竹子伯母さんと云う言葉が、如何にも幼い頃に云い慣れた言葉の様に、極めて自然に口から出る。是だけでも何よりの証拠だと、丈夫は思った。槙子は語を続けて、

 「此の国へ来てからも、竹子伯母さんを何うにかして尋ねる工夫は有るまいかと、心では此の様に思ったのです。それに又、アノ風間夫人の話に、デポンシャ州に春山家と云う貴族が有って、その家筋に竹子の方と云う老婦人が有ると、是れは私が此の国へ着いて初めて風間夫人に逢った時に聞きました。

 此の時には、若しやその方が竹子伯母さんでは有るまいかと、思いましたけれども。」
 丈夫「そう思ったなら、何故詳しく問うて見なかったのだ。若しその時に問うたならーーー。」

 槙子「ハイその時に問えば好かったかも知れませんが、誰に云っても、信じて呉れる者は無いだろうと思い、又信じて呉れない時に、イヤ真実の事だと云う丈の証拠も有りませず、それのみで無く、父が豪州(オーストラリア)に居る間、幾度も自分の苗字を替えまして、一人の人には春山と云うかと思えば、次の人には夏川とも云い、引越す度に秋だの冬だのと様々に替りましたので、真に春山と云うのが、本当の姓かその邊さえ確(し)かとは、私には思い定めが出来なかったのです。

 それでも折を見ては言い出しました。輪子さんにも風間夫人にも、少し許かり話し掛けた事は度々ですが、その度に笑われました。取り分け風間夫人などは、今日尋ねて来た時は大層丁寧でしたけれど、是より前は私を愚弄するのを一つの楽しみと思って居る程に見えまして、或時などは槙子さん、貴女が自分で皇族の末だと云わないのが不思議ですと私へ言いました。

 此の様な事で、何して相談が出来ましょう。相談すると益々笑いの種を作る丈です。その後、貴方の阿母(おっか)さんへも申し掛けましたけれど、阿母さんも充分にはお信じ成さらない様に見えましたから、私はそれ切り思い切ってしまいました。
 ナニ素性などは何うでも好い。素性には拘わらずに、貴方が妻にして下さったからと、唯だ有難く思って居ます。」

 成るほど、聞けば最もな次第でも有る。



次(本篇)三十九

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