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hitonotuma47

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)四十七 「殺して了(しま)ふ外は無い」

 自分の父を欺(あざむ)く積りで帰国したとは、何たる間違った男だろう。けれど其所(そこ)が波太郎の波太郎たる所である。
 更に自分の妻が、自分より先きに帰国して居て、父に自分の悪事を告げ知らせて有る為め、最早や父を欺く事が出来ないだろうと云って、絶望するに至っては言語道断《もっての外の事》)だ。

 けれど、丈夫の方は、波太郎のその様な心の中をまで、詳しく考える暇は無い。波太郎が帰って来たのが唯だ悔しい。唯だ情け無い。死んだと成って居る此の男が、その実生きて居ると成っては、我が妻の槙子は、我が妻では無い。此の男の妻なのだ。

 我と婚礼した時、後家《未亡人》)では無かった。婚礼などしては成らない「人の妻」で有った。その邊の間違いは仕方が無いとしても、此の後が何(ど)の様になるだろう。四苦八区とは丈夫の此の時の心中の痛さを云うのだろう。

 しかし波太郎は、丈夫の苦痛に頓着《気を使う》しない。唯だ自分の事ばかり考えて、
 「エッ、全くそうでしょうねえ。槙子が此の国へ来て居るのでしょうねえ。」
気遣(きづか)わしそうに念を押して、

 更に、
 「アア、弱ってしまった。アノ様な女だから、私の事を不実者とか何とか云って、酷(ひど)く恨んで居るに違いない。逢ったら何の様な目に逢わせられるか知れない。困った事だ。」

 全く困った様子である。丈夫は悔しさの余りに声も鋭く、
 「貴方の様な悪人でも、多少恥と云う事は知って居ますか。卑怯にも妻を欺き、自分が死んだ振りをして振り捨て、今では後悔の念が浮かびましたか。妻に逢うのが面目無いと思いますか。」

 叱り附けては見たけれど、此の男を叱って何の為になる。叱っても、罵(ののし)っても、困難な此の局面が、一厘一毛でも変わる譯では無い。のみならず此の叱る言葉の中に、貴方の妻と云う様な語を用いる事が、何より辛い。いっそ此の男と、口を利かないのが好いかも知らん。

 波太郎「貴方は直に、卑怯とか悪人とか云う様に、私を罵(ののし)りますけれど、槙子は決して私と肌の合わない女ですもの、捨てる外は有りません。肌が合はず気心が合はず、そうして私の言葉は一つも用いないのですもの。私は一年ほど一緒に居て、実に懲り懲りしてしまいました。」

 そうで有ろう。そうで有ろう。槙子の様な清い女が、此の汚がらわしい波太郎と、気心の合う筈が無く、波太郎の言葉に従う筈が無い。若し従ったなら、波太郎同様の堕落者と成ってしまうのだ。決して今の様な槙子の天性を、支えて居る事は出来ないのだ。

 丈夫「懲り懲りしたのは、妻の方で云う事でしょう。苟(いやしく)も女なら、貴方の様な者と、心の合う筈は有りません。貴方と一年も一緒に居れば、大抵の者は発狂してしまいましょう。況(ま)してアノ様な清い心の女ならーーーー。」
と、腹立たしさに思わず知らず、槙子の弁護をまで初め掛けた。

 波太郎は早や聞き咎め、
 「何ですと、アノ様な清い心の女ーー。是れは可笑(おか)しい。良く槙子の心の中まで貴方がご存知ですねえ。」
と云い、暫(しば)しの間、目を見張って丈夫の顔を眺めるのは、余り合点が行かないので、二の句が継げない為でも有ろうか。やがて彼は擋(はた)と手を打って、

 「アア分かった。槙子が此の国へ来て居るのみか、余ほど貴方と懇意にして居ると見えますね。是は可笑しい。実に一大滑稽だ。」
と言って、全く可笑しさに我慢が出来ない様に打ち笑った末、
 
「本当に不思議ですよ。私の様な悪人の持ち古した妻が、そうサ、私を悪人悪人と、昔からお叱りに成さる貴方に、見初められる事に成るとは、世界は廻り持ちですねえ。是れは可笑しい。実に可笑しい。」

 彼は殆ど笑いが留まらない。そうして暫くして又、
 「アア、一寸顔が美しいから、貴女に見初められたのだ。豪州に居る時でも、姉妹とも随分美人の評判は有ったのだからーーーけれど何しろ悪人の妻が、聖人の様な貴方の心を引付けるとは、実に奇妙です。
 聖人を虜(とりこ)にするとは、槙子に取っては大出来です。

 嘲りだか何だか知らないが、兎に角も嬉しい様な口調である。何でも此の波太郎は、人の当惑とか、迷惑とか云う様な有様を見れば、嬉しがるのだ。
 聞いて居る中に、丈夫の怒りは益々募る許かりである。初めから既に発狂の際まで押し寄せた程で有ったが、今は前額(ひたい)の辺に、太い青筋まで顕われて、一刻も我慢が出来ない状態と成った。

 或いは丈夫の心の底には、最早や波太郎を殺してしまう外は無いとの念が、兆して来たのでは無いだろうか。彼れは彼の声とは聞こえないほどに変わった声で、
 「波太郎さん、波太郎さん、私は其の槙子と婚礼したのです。」
 波太郎は、
 「エッ、婚礼を、貴方が、アノ槙子と。」
言いながら、又も打ち笑い相にしたけれど、丈夫の顔に現れて居る異様な怒りに、却(かえ)って恐れを催したのか、忽(たちま)ち口を噤(つぐ)んで、又も丈夫の顔をジッと見た。

 真に、何の様に此の場が収まる事だろう。



次(本篇)四十八

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