hitonotuma50
人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)
バアサ・エム・クレイ女史 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。
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人の妻 バアサ・エム・クレイ女史 作 黒岩涙香 訳
(本篇)五十 「路上の邪魔」
人間も場合によっては脆(もろ)いものだ。少しの事で死んでしまう。
尤も少しの事では無い。丈夫が波太郎の咽喉(のど)を絞めたのは、一生懸命の力を出して、圧(お)し附けたのだから。
兎も角波太郎はグーの音も出ずに死んでしまった。イヤ死んだと同様に成ってしまった。
丈夫は、
「アア之で波太郎を殺してしまったのだ。」
と呟いて立ち上がった。そうして暫(しばら)く波太郎の死に顔を眺めて居た。アア丈夫は発狂したのだろうか。
人を殺して少しも後悔の念が起きない。我が罪を罪と思う様な心さえも出ない。若しも生き返えれば、もう一度殺し直すと云う風で、暫く見た末、生き返る様な様子が見えないのに満足して、ここを立去った。イヤ立ち去ろうとした。そうして二、三間(4~5m)歩んだが又立ち留まって後を向き、波太郎の死骸を見た。
「アア此のまま置いては、道行く人の邪魔になる。」
と呟いて又引き返した。
引き返して何(ど)うする積りだろう。彼は死骸の足を引いて、道の傍の茂った草の中へ、投げ込む様に入れてしまった。人に発見されない様に、死骸を隠してしまう用心では無いのだ。
唯だ道行く人の邪魔に成らない様にとの考えのみの為に、道の外へ片附けたのだ、勿論片付けても、まだ草の間から充分に現れて居る。ここを通る人が有りさえすれば、必ず見つける。見つけて誰の犯罪かと調査される事にもなる。
けれど丈夫はその様な事は思い及ばない。唯だ路上の邪魔を片付けて、自分の義務が済んだと云う様な風で、今度は本当に立ち去って、森の一方の出口まで行き、小高い崖の上に立って、茫然と向こうの村の方を眺めて居た。
遥か彼方には、罪も無く遊んで居る子供の姿なども見える。全体の景色が何と無く静かで、そうして清浄である。是等の景色を無言で凡そ十分間も眺めたが、そのうちに心が段々と働き出したと見え、
「アア是で槙子は助かった。」
と呟(つぶや)いた。
丈夫の心に、何よりも重く掛かって居るのは、槙子の事である。槙子が若し波太郎がまだ生きて居る事を知り、自分との結婚が全くの二重結婚てあると云う事に気附いたならば、何(ど)うだろう。槙子は迚(とて)も此の世の人では無い。恥や恨みに死んでしまう。たとえ死ななくても、世間へ再び顔を出す事の出来る時は来ない。是れを思うと、丈夫は全く自分の身が、八つ裂きにされるよりも辛い。
波太郎を殺したのも、単に槙子の此の苦患(くげん)《苦しみと悩み》を救って遣る為である。決して自分が槙子を失うのが惜しい為では無い。勿論自分が槙子を失うのも辛い。辛いけれど之は我慢する。唯槙子の身に恥じや悲しみや苦しみなどの、振り掛かる事だけは我慢が出来ない。
アア彼は人を殺したとは云う者の、此の点に於いては、まだ仁者の心を失っては居ないと云っても好い。自分の為は思わずに、人の為を思って居る。発狂しても普通の人の発狂では無い。慈善的な発狂とも云うべきである。
「アア是で再びロンドンへ行って直ぐ婚礼を仕直そう。」
と云うのが、彼の心に現われた次の思案であった。波太郎が生きて居るうちにした昨年の結婚は、云う迄も無く無効である。解釈の仕様に依っては、犯罪にさえも成らないとも限らない。
今は幸い波太郎が死んだから、ここでする婚礼は有効である。有効な婚礼さえすれば、今までの落ち度も償いが附くと、彼は此の様に思って居る。きっと槙子がここで再び婚礼すると聞けば、驚くだろうけれど、前の婚礼は少し手続きの違った所が有る為に、仕直すのだと云えば、我が言葉を殆ど神のお告げの様に信ずる槙子だから、諄(くど)くは問わず、直ちに言葉通りにするだろう。
好し、此の次の汽車でロンドンへ行き、ロンドンから槙子を呼び寄せる事にしよう。
こう思案を定めて、丈夫は元来た森の中の道を停車場の方へ引き返した。勿論波太郎の死骸の横たわって居る傍を通った。けれど是には見向きもしない。殆ど波太郎と云う者が、曾(かつ)て此の世に在った事をさえ忘れたのかと怪しまれる程である。
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