巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma51

 *人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止) [#f4672d42]

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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 人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)五十一 「静かには懲々(こりごり)」

 丈夫の様な、知る人から聖人とも綽名(あだな)される温厚な人間が、人一人殺すとは実に容易な事では無い。殺す事に為るまでに、何れほど心が激動したか、計り知れない。激動の後は必ず疲労が来る。彼が森から引き返して停車場へ来た時は、もう徐々(そろそろ)その疲労が出て居たのだ。

 自分の殺した波太郎の死骸の傍を通っても、振り向いて見る力も無かった。人殺しの罪の恐ろしいと云う事を殆ど感ずる力も無かった。
 停車場へ着いて見ると、生憎にロンドン行きの汽車が、今出た所である。次の汽車までは一時間の上待たなければ成らない。そうと聞いて彼はガッくりと打ち凋(しお)れた。

 出掛けて居た疲労が一時に出て、心のみか体までも、打ちのめされた様に、何の力も無くなった。彼は蹌踉(よろめ)き停車場を出て、その直ぐ横手に在る茶店に入り、店の中の最も暗い隅の方のテーブルに向かい、自分の身を投げ棄てる様に椅子に掛けた。後は昏々(こんこん)として、イヤ眠りはしないけれど、殆ど人事を弁ぜぬ。

 此の様を見た女給が、少し怪しんで更に彼の様を眺めて居たが、愈々(いよいよ)唯事で無い。幸いに客が途切れて、手が空いて居る為に、親切に丈夫の傍に来て、
 「貴方は御病気では有りませんか。」
と問うた。若し此の問いに逢わなかったら、彼はそのまま絶え入る所で有ったかもしれない。

 ヤッと気が附いて顔を上げ、
 「オオ何か飲む物をお呉れ。興奮する様な飲む物を。」
と云った。やがて給仕は珈琲の中にブランデーを落としたのを持って来た。
 之を飲んで漸く人心地には返った。更に煙草を燻(くゆ)らせた。

 心地は益々確かになったのが彼には辛い。彼は此の時初めての様に、
 「俺は人を殺したのだな。」
との感じが起こって来た。従ってその殺すに至ったやむを得ない事情も、今更居の様に思い出した。アア何うすれば此の身と槙子の身が都合よく落着する事だろう。イヤ何うしたとしても、落着する筈は無い。

 波太郎が現れたので、既に落着の道が無い事に成ったのを、更に彼を殺した為め、愈々よ始末の附かない事に成った。その上に我が身の罪の恐ろしさが犇々(ひしひ)しと分かって来る。

 是で見ると彼は発狂したのでは無かった。発狂した方が余ほど優って居た。一時は発狂で有ったろうが、こう正気に返っただけ更に不幸と云う者だ。最早や何の思案とても浮かばずに、唯だ思い悩んで居る所へ、外から又此の店へ入って来る二、三人の声が聞こえた。

 「大きなお世話だ。ナニ介抱などして呉れずとも好い。賃銭など遣る者か。」
と一人が云へば、又一人は、
 「ヘンここへ来る迄、二度も途中で倒れ掛けたぢゃ無いか。介抱に及ばないとは何の口で云う。散々介抱を受けた後で。」
喧嘩の様に荒ららかである。次の一人は宥(なだ)める様に、

 「ナニ酔っ払いだから仕方が無い。此の衣服(みなり)では賃銭も無いのだろう。此の様な奴に掛り合ったのが此方(こっち)の不運だ。手間を費やす丈損だから、放っとけ。」
 こう云って、介抱を受けたと云う一人を突き飛ばして二人は去った。是れは此の邊の人足らしい。

 突き放された一人は、成るほど酔っ払いか何ぞと見え、力無さそうにそのまま店先の椅子に腰を掛けたが、此方から丈夫が之を見ると、何うだろう、此の者は波太郎であるのだ。彼は蘇生して、人足の介抱を受けつつここまで来たのだと見える。

 生き返れば、もう一度殺し直すと呟(つぶや)いた丈夫だけれど、今はその勇気は無い。却って生き返ったのを見て、自分の人殺しの罪が消えた丈け嬉しく思う。直ぐに此方から声を掛けようかと思って居るうち、波太郎は店の中を覗き込んで、丈夫の姿を認めて、

 「未だここにお出ですか。」
と云いつつ首を突き出して丈夫の傍に来、
 「貴方は見掛けに寄らぬ酷(ひど)い事を成さる。本当に酷い事を。ーーー少しの事で私は死んでしまう所でした。」
とは云うけれど、別に深い恨みを残して居る様には見えない。恩も義理も直ぐに忘れる悪人だけれど、こう恨みをも忘れる所は、未だしもの取り所かも知れ無い。

 丈夫「勿論、死なせてしまう積りで有りましたのさ。けれど蘇生して来たのなら仕方が無い。」
と云いながら更に疑う様に波太郎の姿を眺めた。全く大した害も無しに息吹き返した者と見える。別に先刻初めて逢った時と様子が違わない。丈夫は之を幸いに、今度こそは何とか十分な話を着けてしまわなければ成ないと思い、

 「先ア、静かに相談しましょうよ。」
と誘う様に云った。
 波太郎「勿論相談しますよ。相談して幾等かの手当を受けなければ、もう旅費も尽きて居ますから。けれど丈夫さん、静かに相談しようと云う、その静かが私は御免ですよ。

 先刻も静かな所へ行こうと云って、エエそうじゃ有りませんか。貴方の静かには懲々(こりごり)しました。もう相談なら騒々しい此の店で取り決めてしまいましょう。決して静かには及びませんから。」
云いつつ丈夫の前に腰を降ろした。



次(本篇)五十二

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