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hitonotuma53

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)五十三 「生涯の「帰らぬ」」

 波太郎が去った後に、丈夫は更に長く考えて居た。実に幾等考えたとて、考え尽くせない場合である。幾等日頃から果断な男であっても、好い思案の浮かぶ筈が無い。

 けれど、兎にも角にも槙子が最早や、自分の妻で無い事だけは明白である。幾等波太郎が姓名を変えたとしても、幾等死んだ者と此の世の人に思わせて置いたとしても、波太郎は依然たる波太郎で、事実生きて居る者は、死んだ者と違うのだ。

 世間を欺く事だけは出来るけれど、丈夫自身が自分の心を欺く事は出来ない。自分の心から云えば、勿論波太郎は生きて居る。生きて居れば勿論槙子は波太郎の妻で、自分の妻では勿論無い。

 自分の妻で無い者を、妻として居る事の出来ないのも勿論であれば、是限りで一緒に棲んで居る事の出来ないのも勿論である。
 一緒に棲む事が出来ないなら、分かれる一方であるが、分かれるとすれば、伴野荘から自分が立去るか、槙子を立ち去らせるかの二つに一つである。

 伴野荘は元が我物であるけれど、今は何方かと云えば槙子の物と云わなければ成らない。槙子の家から槙子を追い出す事は出来ない。自分の方が出て去らなければ成らない。たとえ妻の物は夫の物とした所で、イヤそうすれば伴野荘は槙子の夫波太郎の物と為るので、自分の物とは成らない。何方を何う考えても、自分が伴野荘に残ると云う道理は出て来ない。

 そうだとすれば槙子を後に残して、自分が伴野荘を去るしか方法が無い。是だけは先づ決まった。去るに就いてはその譯を槙子に知らせようか。
 否、否、否、断じて否である。若しも槙子に、波太郎が今生きて居る事を知らせれば、槙子は二重に結婚した其の身の恥に死んでしまう。

 此の伴野丈夫の妻で無いと云う悲しさの為にも、生きては多分居ない。私と生涯分かれると云う辛さの為にも、命は無くなる。病気になるか自殺するか、いずれにしても此の世の人では無い。それは日頃の気質で充分に分かって居る。
 シテ見れば、何事も知らさずに去らなければ成らないと云う事も、先づ決まった。是れ丈がきまれば、後の事は何うでも好いのだ。

 好し、好し、槙子には私が何か止むを得ない用事の為に、立ち去った様に思わせ、波太郎が生きて居ると云う事は、少しも知らさず、従って最早や私の妻で無いと云う事も、気附かせない様にして、何時までも伴野丈夫の妻であって、伴野荘に何の気兼ねも無く、居る事が出来る様に思わせて、そうしてそのまま生涯の分かれとする外は無い。

 実に親切に思い定めた。丈夫の日頃の気質から云えば、この様な親切な思案に決着する外は無い。イヤ丈夫に限らない。荀(いや)しくも人たる情の有る人間ならば、ここへ思案が落ちて来る外は無いのだ。

 この様に漸(ようや)くに定まったのは、凡そ二時間も考えての後である。定まりは定まったが、さて槙子に分かれる事が、何れほど辛いかと云う事は、未だ思い知らない。

 昨日までもイヤ今朝までも、此の妻の外に世界は無く、此の夫の外に生涯は無いと迄に、思い思われもして、愛と情けとの底に溺れて居た者が、忽ち分かれてしまうとは、如何に分かれなければならない義理合いとは云え、耐(こら)えることの出来る、事柄だろうか。

 出来ても出来なくても、そうする外は無いのだから、丈夫は一旦決した上は二度と迷わず、彼(あ)の茶店を立って、停車場に付属して居る電信取り扱い所に行き、槙子に宛てて電報を発した。その文言は、

と許りである。此の「帰らない」とは、今夜帰らないと云う心か、当分帰らないと云う心か、槙子には分からないだろうが、丈夫の意では、何とも時間を切って無いから、「帰らない」だけで限りは無い。生涯の「帰らない」なのだ。

 間も無く来る汽車に乗って、丈夫はここを立った。行く先は勿論春山伯の所では無い。母がブルードにある大津博士の家に、逗留の為め行って居るのだから、その所を指して行った。大津博士の家に着くや否や、母に差し向かって面会したいと言い込んだ。妙に改まった取次だから、母も怪しんで出て来たが、丈夫は応接の室(ま)に腰を掛けたままである。

 入り来る母を立って迎えもしない。挨拶もしない。そうしてその顔は殆ど目が血走って居るのだ。母御は全く尋常では無いと見て取った。

 「何だねえ貴方は。何か非常な不幸でも出来たのでは―ーー有るまいね。」
 丈夫は余韻も何も無い機械的な声で、
 「ハイ非常な不幸が出来たのです。」

 母御「エ、エ、そなたの身に、槙子の身に。」
 丈夫「両方の身に、伴野一家総体に。」
 母御は早や声を震わせて、
 「何とお云いだ。我が家の一家総体に、早く先ア聞かせてお呉れ。」

  丈夫は敵軍に突貫する時の兵士の様である。脇目も振らず躊躇もせず、
 「波太郎が猶(未)だ生きて居ます。彼が槙子の夫です。そうして此の国へ帰って来ました。少しも間違いは有りません。今私が逢って、話までもして来ました。」

 母御は容易に理解する事が出来なかった。けれど徐々(そろそろ)と理解する事が出来た。
 母御「何とお云いだ。我が家の一家総体に、早く先ア聞かせてお呉れ。」ろそろ)と合点が行った。合点の行くと共に、
 「アノ波太郎が先ア何うしたら好いだろう。」
 幾等気丈でも婦人である。身を取り乱して驚いた。



次(本篇)五十四

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