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人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
   
    (本篇)五十四 「寸前暗黒な分かれ」

 母御は身を取紊(みだ)して驚いたが、丈夫の方は物凄いほど静かである。顔の一筋をさえ動かさない。
 静かな人の心の苦痛は、取紊(みだ)した人よりも深いだろうと、母御はやがてこう感じた。実に流石は母御である。自分が此の様に驚き悲しむべき場合では無い。息子の心を慰めて遣(や)らなければならない。元気づけて遣らなければならないと、少しの間に気を取り直して、

 「何うして先ア波太郎が生きて居たか、詳しく私に聞かせてお呉れ。」
 丈夫は言葉の調子まで、矢張り物凄いほど静かである。殆ど他人の事を話す様に落ち着いて話し出した。そうして一旦彼れの咽喉を縊(し)めて、死人同様の有様に至らせた事まで残らず話した。話し終わって彼は叫んだ。

 「アア阿母(おっか)さん、私は波太郎を殺した事を、一度は後悔して、彼の蘇生したのを見て、まア好かったと安心しましたけれど、今思うと矢張り彼を殺す外は無いのです。何故その蘇生して来た時に、再び殺し直さなかったんでしょう。」

 真に恨めしさに耐えられない様子である。
聞き終わって見ると母御も、何と丈夫を慰めて好いやら分からない。慰める言葉の有る様な事柄では無いのだ。暫(しばら)くは胸に湧き起こる悲しさを、堰き止めかねて居たが、漸(ようや)くに声を整えて、

 「その様に金まで遣って、波太郎を米国(アメリカ)へ追い遣ったとすれば、ーーー其方はまさかーーー今までと同じ様に、イヤ波太郎と云う者が此の世に無いと同じ様に、何事も知らない顔で済ます積りでは無いだろうね。」

 丈夫「何で今までと同じ様に、何事も知らない積りで、暮らして行く事が出来ましょう。波太郎を追い遣ったのは、自分の為では無く、槙子の為です。私の方はもう、勿論槙子の夫では有りませんが、それにしても槙子へ此の事を知らせるのは、如何にも可哀相です。波太郎が生きて居て、自分が私の妻では無かったと知れば、槙子は必ず死んでしまいます。ーーー。」

 母御「そうサ、あの美しい気質では」
 丈夫「ですから槙子には、何にも悟らせずに、今のまま私の妻だと思わせて、そのままソッとして置いて、私だけ立ち去る積りです。」

 母御が若し愚痴な女なら、泣きもしよう。悲しみもしよう。容易には丈夫の此の決心を、呑み込む事が出来ない所で有るだろうけれど、男優りとも云われた程の方だけに、全くそれより外に仕方が無いと見て取った。
 「兎も角、ここ一時の所はその様にでもして置かなければ成らないかねえ。」

 丈夫「イイエ、一時では無く永久です。私は色々と先刻から考えましたが、そうするには、印度へ行くのが一番宜(よろ)しいと思います。ハイ弟次男の許へ私は行きますから、槙子へは成るたけ怪しまれない様に、言い聞かせてーーー。」
とまで云い掛けたが、彼はここに至って、俄然として、殆ど今まで耐(こら)え耐(こら)えた悲しさが、一時に胸を破ったと云う様に泣き声を発した。

 アア彼れが今まで物凄いほど静かで有ったのは、何う此の場合を処置すれば好いかと、唯だ考えてばかり居たのだ。思案に追われて、悲しむ暇も無かったのだ。今は愈々(いよいよ)夫婦分かれ、是れをこうして彼(ああ)してと一切の思案が定まったので、心に少しの裕(ゆと)りが出来、悲しさが先に立つ事と為った。

 夫婦分かれと云えば、言葉だけでも悲しいのに、況(ま)して丈夫と槙子の様な、多年不幸不幸の中に居て、初めて人生の楽しみが廻り来たと云う此の際に、生涯の分かれをするとは、実に悲惨の極みである。

 丈夫は一旦泣いて、神経を弛(ゆる)めなければ、男ながらも迚(とて)も耐える事が出来ない。彼は暫(しば)しが程、全く声を放って泣いた。そうして、自分さえ是ほど悲しいことなので、益々槙子に何事をも悟らせてはならないと決した。

 丈夫が泣いて居る間、母御は唯だその背を撫でて泣かせて置いた。親身の母の前ならばこそ、こう泣けるので心が休まる。漸(ようや)くにして泣き声のおさまった頃、母御は穏やかに、

 「其方の思案を良く聞かせてお呉れ。出来る丈け私が手伝って上げるから。」
 丈夫は涙を乾かせて、
 「私は今夜ここから直ぐに立って、大陸へ行き、汽車で地中海の何所かから、インド行きの船に乗ります。きっと槙子が怪しみましょうから、次男が病気に成ったと、こう言い聞かせる事に致しましょう。ハイ次男を病気と言うより外に、怪しまれない様な口実は有りません。」

 母御「それはそれで良いと決めて、ここから直ぐに立つと云っても、一度は我が家へ立ち寄ってーーー。」
 皆までは言わせない。
 「イイエ阿母さん、我が家へ寄って槙子に暇を告げるなどと、その様な事は出来ません。寄れば何れほど別れが辛いかも知れず、悟られずには済まないと思います。それに又、我が家と云っても、もう我が家では無く、私は槙子へ暇さえ告げる権利の無い人です。」

 何も彼も呑み込んだ母御でも、少し驚かない譯には行かない。
 「暇をさへ告げずにとは、大変なーーー」
 丈夫「イヤ、大変でも是より外は無いのです。既にその積りで、帰らないと云う電報を打って置きました。」

 母御は唯だ歎(なげ)くのみである。
 「何も彼も、もう仕方が無い。アア不幸な事だ。」
 我知らず此の愚痴が出た。

 丈夫「私が槙子へ宛て、今ここで手紙を書きますから、何うか貴女は今夜の中にそれを持って、我が家へお帰り下さい。イヤ槙子の許へお出で下さい。手紙には、成る丈け槙子が道理(もっとも)と思う様に、余り驚かせると恐れるから、暇も告げずに立つのだと書いて置きますから、後は何か阿母さんのお考えで。」

 母御「分かりました。分かりましたが、そうして其方は何時まで印度に居る積りで。」
 丈夫「明らかには分かりませんが、当分は帰りません。槙子の許へは生涯帰りません。けれど槙子には、何所までも悟らせない様に、私は手紙なども月々寄越し、今まで通りの間柄だと思わせて置くのです。幾年か経つ中には波太郎か私かが病死しましょう。何方(どちら)でも一方が亡くなれば事は済みます。」

 此の言葉で見ると、或いは自殺する積りでではないだろうか。母御はそうとも問い兼ねて、
 「後は何とでも、私の力の及ぶ限り、良い様に計らうから、其方は決して短気な心などを起こしてはいけませんよ。」

 丈夫「その様な御心配は有りません。何分宜しくお願いします。」
 母御「幾等悟らせない様にしても、其方が何時までも帰らなければ、そのうちには悟る時も来るだろうがーーーー。」

 丈夫「同じ悟るにしても、成る丈け当人の辛くない様に良く慰めてお遣り下さい。」
何所迄も実意は行き届いて居る。
 母御「それは慰めも傷(いた)わりも仕ますとも。先ア後の事は成る丈け心配せずに、其方も身を大切にしてお呉れ。」
唯一語にも千萬無量の慈母の愛が籠って居る。

 間も無く丈夫は紙筆を借りて、ここで槙子への手紙を認め、それを母御へ渡して、母御は伴野荘を指し、丈夫は印度へ向けて大陸を差し、分かれ別れに大津博士の家から立った。実に気の沈んだ、云わば寸前暗黒な分かれであった。



次(本篇)五十五

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