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hitonotuma57

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)五十七 「真に難題」

  道子が波太郎に逢ったとは、実に意外な事で有る。
 丈夫の母御は驚かない譯には行かぬ。
  「エエ、何うして貴女が。」
 とばかりで後の言葉が出ない。

  道子「実は波太郎が、是から米国へ立つのだと云って、私を尋ねて来ました。」
 成るほど思えば波太郎は、此の道子の弟である。弟が姉を尋ねるのは怪しむに足りない様に聞こえるが、しかしながら波太郎は堅く丈夫に向かって約束したのである。
 此の世の何人にも波太郎が生きて居る事を知らさず、此のまま米国へ隠れてしまうと。

 その堅い約束で大金まで得た者が、若し向こうから見認められたのなら兎も角、自分の方から尋ねて行って、自分が未だ生きて居る事を知らせるとは、如何に放埓(ほうらつ)《勝手気ままでだらしが無い事》な男とは云え、余りに酷い。それでは全く丈夫を詐欺した様な者だと、此の様に思う心が、

 「エ、波太郎が貴女を尋ねて行きましたか。」
と問返す短い言葉の中に、自ずから現れた。
 道子「イイエ、夫人、そうまで御心配には及びません。彼れは夜更けてから密かに私を尋ねて来て、私しより外は誰も知らなのです。そうして彼は事の次第を私し丈へ話して去りました。直ぐに米国へ向け立った事は疑いが無いのです。」

 兎も角道子は母御が知って居る丈の事を知って居るのである。丈夫の秘密、イヤさ伴野一家の上に係わる大秘密を。幾等波太郎にもせよ、幾等自分の姉に向かってにもせよ、洩らさないと堅く誓いを立てた後で、この様に洩らしたとは、余りに酷(ひど)い。母御は、
 「それにしても」
と云って道子の顔を見詰めた。

 道子「ハイそれにしても、波太郎の酷いのは勿論です。私は自分の弟でも彼れが生きて居るのを嬉しくは思いませんでした。是は先ア伴野一家に対し槙子に対し、大変な事件が起こった者だと、私しは他人ながらも途方に暮れ、何でもお前は生きて居た。何で此の国へ帰って来たと、ハイ恨みがましく彼を叱りました。」

 勿論、心の正しい道子の事だから、この様に叱ったに違い無い。
波太郎が生きて居るのを、母御が驚いたと同様に驚いたに違い無い。道子は語を続けて、
 「それは波太郎の云う事が、一々人間の道を外れて居ますので、私は何で私の弟に此の様な者が出来たのかと、忌々しい様に思いました。

 何うでしょう。彼れが云うには、是れでもう槙子を丈夫さんに売り渡したのだから、丈夫さんは今まで通りに槙子を妻にして居る事が出来るのだと、宛(まる)で品物でも扱う様な口調でした。けれど私しは間も無く丈夫さんが印度へ立った事を聞きましたから、流石は丈夫さんだと感心しました。

 素より槙子の耳へは、波太郎の事を露ほども入れないのでしょうねえ。」
 母御は、私の子に限ってその様な、道に背いた事はしませんと云う様な面持ちである。
 「ハイそれを槙子に耳へ入れるの、を丈夫は何より辛いと云いました。それだから自分が身を抜いて、成る丈け槙子に疑はせない様に、印度へ去ったのです。」

 道子「実に丈夫さんの心を察すると、お可愛相です。それほど迄に槙子を愛し、槙子をお傷(いた)わり成さるのに一緒に居る事も出来ず、波太郎が死なない限りは、生涯の夫婦分かれでしょうが、その事情さえ妻に知らせる事が出来ずに、妻から怪しまれ疑われ、そうして果ては恨まれて終わらなければ成らないのですねえ。」

 母御「そうです、丈夫はその決心です。」
 道子「妻に分かれる男は幾等も有りますが、此の様な辛い別れが又と有りましょうか。それにしても夫人、貴女も決して波太郎がまだ生きて居る事を槙子の耳へは入れないお積りですか。」

 母御「そうですとも、私は丈夫から、槙子に知らせて呉れとの言葉が出るまで、決して知らせは致しません。之を知らせれば、槙子の驚き悲しむ事は勿論の事、引き続いては伴野一家の恥が世間へ知れ渡る事にもなりますもの。」

 健気な母御の言葉に対し道子は猶更(なおさ)ら面目無さそうに、
 「何で波太郎が、丈夫さんの心掛けの切めて千分の一でも、持って生まれなかったのでしょう。彼自身の話しに由ると、豪州で汽車の事変の有った時、その汽車に乗っては居なかったのに、彼はその事変を幸いにして、自分の妻を振り捨てる心を起こし、同じ様な心の間違った友人に頼み、波太郎が乗って居たと鉱山局へ向かって証言をして貰い、そうして槙子の許へ波太郎の死んだ旨を通知などして貰った相です。」

 聞けば聞くほどずるい男では有るが、之に就けても母御の心に、槙子が若しや波太郎が死んでいない事を、その時から感附いて居たのでは無いかとの疑ひが益々深くなって来る。母御は耐へ兼ねて、道子にその疑いを洩らした。道子は驚いて、

 「イイエ、夫人、そればかりは貴女の疑い過ぎでしょう。槙子の心はその様なーーー前の天が生きて居るかも知れないとの懸念が有るのに、次の夫と結婚する様な間違った了見では有りません。」
と明らかに言い消した。

 成るほどそう云われればそうでも有ると、母御は早や少し自分の疑い過ぎたのを悔る様な気に成った。
 是より暫く無言で馬車の進むに任せて居たが、又も道子は心配そうに、
 「したが夫人、何時までも丈夫さんは帰らず、槙子には離縁とも離縁で無いとも言い渡さずに、此のまま月日を送って、最後の果ては何うなるとお思いです。イヤ何うなさるお積りです。」

 是れを聞かれて、母御も途方に暮れない譯には行かない。
 「ハイ私も何の様に治まる事かと、それが心配で成らないのです。もしも槙子へ、実は波太郎が生きて居るのだと、誠をを明かす事が出来れば、早く何とか収まりが附ましょうけれど、それを知らさなければ、唯だ槙子の心配を長くする丈の事で、私も可哀相で成りません。」

 と云って明かす事の出来る譯でも無し、真に何の様に治まるだらうとの難題が一様に両婦人の胸を圧して居る。



次(本篇)五十八

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