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人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)六十二 「健康な病人」

 それはさて置き、愈々よ伴野次男の方が帰って来た。兄の丈夫は帰って来ない。
 何の為に帰って来た。彼は印度へ行って以来、全く改まった人間と為り、彼の地で多少の名望も信用も出来、或る用達会社の書記から支配人に、支配人から社長にまで立身し、今は立派な紳士と為った。

 誠に艱難は人間の薬である。畢竟(ひっきょう)《結局》艱難が此の男を此の様に盛り立てたのだ。既に是だけの地位が出来て見れば、妻と云う者が無くてはならない。
 妻は大津博士の三女鈴子をト、自分の心では印度へ行く前から決めて居る。約束をこそしては無いが、鈴子の方でもきっとそうと知って居るのだろう。

 印度へ行く時は、互いに涙で分かれたのだ。その後鈴子が夫を持たず、女医者と為って独立して居るのは、その邊の意味にも由る事の様に思われる。それだから次男は鈴子を説き落とす為に帰って来るのだ。一別以来早や五、六年、筒井筒の様な幼馴染みで有った仲が、互いに人と為って再会するするとは、是だけでも嬉しい事で有ろう。

 帰るに就けては、兄の丈夫へ是非一緒にと、勧めたけれど、丈夫が応じない。それに丈夫は印度へ行って以来、一種の憂鬱(ゆううつ)病に罹って居る。勿論アノ様な境遇に成ったのだから、病気は当たり前でもあろうが、その容態(ようだい)が軽くは無い。

 次男が出発の前に無理に勧めて医者に掛からせた所、此のまま此の土地に居ては、重くなりこそすれ軽くは成らず、経過に由っては、終に命まで取られる事になると云われた。

 丈夫は心の中で却(かえ)ってそれを喜んで居る。早く命を取られ度いのだ。医者は英国へまで帰らなくても、ヨーロッパの地に入って伊国(イタリア)か仏国(フランス)の、南部の気候の好い所に身を置くが宜しかろうと、切に忠告したけれど無益であった。

 丈夫は自分で次男の留守を引き受けるからと言い張り、終に次男を立たせたのだ。
 次男は英国へ着いて、様々の用事が有る。母にも逢わなければ成らない。大津博士をも尋ねなければ。更に兄嫁の槙子にも序(ついで)に逢って行く積りである。

 けれど第一に立ち寄ったのは、鈴子の姉道子の家である。道子に逢って鈴子の此の頃の様子を聞き度いのだ。聞いた上で多少の作戦計画もあるのだ。
 道子の家では無論次男を歓迎した。その様子では、早や鈴子を娶りに帰ったのだと察し、大いに賛成して居るらしい。

 その邊の為であろう、道子の口から、妹鈴子は以前と違い、余ほど真面目な女医者に成って居るのだからと言って、暗に縁談でも言い込むには、余ほど用心して掛らなければいけないとの意を仄めかした。

 素より女医者へ縁談を申し込む法と云って、別に雛形などの有る譯では無いから、次男は様々に思案しつつ、此の日は自分の宿へ帰ったが、一夜考えて思案が附いた。

 翌日、通例の医者の診察時間と云う朝の十時に、充分衣服(みなり)などを注意して、大津鈴子M.D.(医学位)医師の診察所に行き、患者の積りで控室に入った。戸表の看板には、『小児科、婦人科』と書いてあるけれど、若い美しい而(しか)も独身の女医者と云えば、男子社会、寧(むし)ろ殿原社会の方が早く評判を立て、アノ医者に限るとか、不思議に診察が適中するとか云い出す者だ。

 控え所には乳母に連れられた子供も二、三人見えるけれど、外に一人、高い襟(カラ)を着けた、余り病人らしく無い若い男が待って居る。次男は少し敵意を以て、
 「此の男は何でアノ様にめかして、病気でも無さ相なのに診察を受けに来て居るのだろう。」
と自分の事は棚に上げて怪しんだ。

 先でも同じく怪しんだらしい。兎に角も次男が彼を見るのと同じ様な目付きで、彼も次男を見た。見たままで双方とも無言である。そのうちに又一人の高襟(ハイカラ)が来た。是も同じ目附きで両人を見、そうして二人からも見られて、矢張無言で席を占めた。

 先ず三すくみの体でも有ろうか。兎に角も仲々の繁盛である。一人の診察が済むと、診察室で鈴が鳴る。それを合図に次の病人が進んで行くのだ。小児三人が順々に出替わって、次の鈴の音で男病人、イヤ病人で無い健康な患者の番が来た。

 第一の高襟(ハイカラ)が呼び込まれて、宛(あたか)も写真屋の写し場へでも入る様に、余ほど様子を作って入ったが、五分ばかり掛って彼は出て来た。けれど何だか、後の二人が何れほど長い間診察せられて居るのかを見て居たい様子で、暫しマゴマゴして居たが、医者の控室には、既に診察を受けてしまった人が、踏み留まる様な口実の種が無い。

 仕方なく立ち去ると、今度は次男の番である。是も帽子を脱ぐと共に、一寸と頭へ手を当て、髪の筋目を繕(つくろ)った上で進み込んだ。
 さて、何の病気を言い立てて彼は診察を受けるのだろう。



次(本篇)六十三


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