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hitonotuma66

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

since 2021.5.17


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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)六十六 「初めての対面」

 次男と槙子と、是が全く初めての対面である。槙子は次男の待っている応接の間へ非常に静かに入って来た。
 次男が印度を立つ頃は、未だ槙子がそう深く丈夫を恨んでは居ない時で有ったのだから、逢えばきっと槙子から様々に丈夫の事を問われるだろうと此の様に思って居た。所が今は事情が違う。

 槙子の方で既に正式に離婚の訴えを起こすとまで決した後なんだから、何うも此の面会が面白く無い。次男の方では唯だ槙子を慰めて遣ろと云う位の考えで、此の外には何を何の様に話そうと云う思案さえ附いては居ない。
 
 けれど次男は兄丈夫の真面目な様とは違い、顔も何所と無くニコやかで、初対面の人でも少しも気の置けない生まれ附きである。それに仲々人を反らさない上手な所が有る。是は天然に備わって居るのだ。他人が真似し度くても真似は出来ない。

 槙子が入って来るが否や、次男は遠慮や気兼ねの猶予をさえ与えずに直ぐに、
 「貴女は姉さんですね。私は丈夫の弟です。次男です。」
と非常に打ち解けた言葉を吐いた。若しも柄に無い人が、初対面から此の様に慣れ慣れしく、取り分け槙子の様に几帳面な女に向かって云ったなら、人を馬鹿にするとの感じを起こされるだろうけれど、次男の口から之が出ると、少しもその様な感じが無い。極めて自然の様に聞こえる。

 先ず槙子の心にも、幾分か柔らかな所が出来た。
次男はこの様に云って槙子の顔を見たが、如何にも世に稀な美人である。美しさの上に何と無く神々しい所が有って、成るほど是では兄がアノ様に愛してアノ様に身を苦しめるのも無理は無いと思った。

 槙子の方では、幾分か心に柔らいだ所が出来たとは云え、仲々他人行儀を頽(くず)さない。
 「ハイ、私が槙子です。伴野さん」
と冷淡に答えた。本当ならば、「次男さん」と隔て無く云う所だろう。次男は賺(すか)さず、

 「伴野さんなどと云わずに、何うか次男さんと呼んで下さい。私も槙子さんと云いますから。イイエもう貴女の噂は兄丈夫から、毎日の様に聞きまして、幾度もお目に掛った様な気がしますよ。」
 是ほど打ち解けた言葉が有ろうか。けれど槙子は丈夫の名を聞くと共に、又一層冷淡に成った。

 「最早や昼食の刻限ですが。」
 言葉は親切であるけれど、その言い方が全く他人行儀である。余ほど意地も有る女だと次男には是で分かった。
 次男「ブルードで、少し早いけれど昼食を済ませて、直ぐに出て来たのです。日の暮れないうち帰らなければ成りませんから、食事の用意は御無用です。」
 
 唯だ、
 「そうですか。」
との一言より外は槙子の口から出ない。
 しかし何所までもそう冷淡なままには、次男の方で許して置かない。
 「イヤ昼食よりも何よりも、こうして幼い頃から住み慣れた家の庭や樹木などを、久し振り見るのが此の上の無い御馳走です。槙子さん、帽子を持ってお出で成さい。暫(しば)し一緒に話しながら、庭を散歩しようでは有りませんか。」

 遠い所へでも行こうと云うのでは無し、直ぐに眼前に在る庭を散歩しようと云うのに、幾等意地でも否と云う事は出来ない。
 手も無く釣り込まれて庭へは出た。何しろ有名な庭である。此の庭へ出れば誰でも話の種には困らない程だのに、況(ま)して次男には一木一石皆履歴がる。縁故が有る、

 その上に当人の話上手が加わるのだから、古い事まで新しく聞かせられる。何時の間にか槙子の口も解けて、或る時は池の傍に憩い、又或時は樹の影にも腰を下ろしなどして、凡そ二時間もそれからそれと話が続いた。けれどその間に、槙子の口からは一語も丈夫の身に関した言葉が出ない。

 是だけは次男も、兄の為に少し情け無い様に思った。兄の方では二言目には槙子の名前が言葉の中に入るのに、是では余り違い過ぎる。真実槙子の方では、兄を何とも思わないのかも知れないと、此の様にも怪しみ掛けた。

 実を云えば思わない所では無い。云わないのは言うに弥優(いやまさ)るとの譬えも有るでは無いか。我慢して言わない丈け女の方が思いが深い。その中に愈々(いよいよ)分かれを告げて、次男が立去る時とはなった。是でも言わないと云う譯には行かないから、次男の方から、

 「実は印度を出る時、兄から何うか時々尋ねて行って、力に成って遣って呉れと云われたのです。別に力になる様な事柄も有りませんけれど、膝とも談合とやら云いますから、何うか御用が有れば、遠慮無く私をお呼び附け下さい。隔ての無い友達の様に思って、イヤ事実貴女は年が下でも私の姉、私は貴女の弟分ですから、全く弟とお思い下さい。」

 こう云われては隔てるにも隔てられない。槙子は少し悲しそうな色を初めて浮かべた。



次(本篇)六十七


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