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hitonotuma67

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

since 2021.5.18


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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)六十七 「最後の分かれ」

 意地で心が張り詰めて居ればこそ、槙子はいままで、丈夫の名を聞く度に益々冷淡に構えたけれど、何時までも意地の続く者では無い。次男が分かれ際の親切な言葉で、思わずその意地が破れて、槙子は泣き声、イヤ泣き声と云う程では無いけれど、悲しそうに声を震わせた。その少し声の震える所が、泣くにも勝る心の辛さを洩らして居るのだ。

 「有難う御座います。次男さん。貴方の御親切は良く分かりました。」
と云い、必死の思いで自分の声を整えて、更に、
 「ですが私はもう、先達て自分の伯父春山伯に、何も彼も打ち明けて頼みました。春山伯から彼方の兄さんへ、細々の手紙を送りましたから、もう兄さんから伯の許へ、多分返事の来る頃でしょう。」

 自分の夫とも云わず、丈夫さんとも云わず、単に「彼方の兄さん」と全く他人らしい言葉を用いて居る。
 次男「エ、兄に何の様な手紙を。」

 槙子「ハイ、私は春山伯に、自分の悪い所だけを悉(ことごと)く打ち明けました。兄さんとを欺(あざむ)いた事まで話して、先ず伯の裁判を乞いましたが、伯は私の悪い所だけは厳しくお叱りに成りました。けれどそれにしても丈夫―--イヤ彼方の兄さんの、私しを振り捨て方が余り厳し過ぎると言って、云わば詰問の様な手紙を出して下さったのです。貴方の兄さんから何の様な手紙が来ますか、ーーー尤も彼方は兄さんに大抵の仔細はお聞き成さったでしょう。」

 次男「ナニ少し許りしか聞きません。けれど兄は少しも貴女の身に、悪い所が有る様には言いませんでした。」
 槙子「私の身に悪い所が無ければ、何を御立腹で私しへ此の様な仕打ちを成されます。」
と殆ど直接に丈夫を責める様に恨みの言葉を洩らし掛けたが、忽(たちま)ち気が附いて、

 「イヤその様な事は云っても今更致し方有りません。兎に角も丈夫―--貴方の兄さんが、此の通りの成され方なので、正式に離縁の手続きをする外は無く、私はその手続きをも春山伯に頼んだのです。伯も成るほど離婚より外は無いと言って、兄さんへの手紙に詳しくその旨を書いた筈です。何うか彼方からお手紙の節は、兄さんへそう申して上げて下さい。もう遠からず離縁に成って仕舞いますから、何も印度まで槙子の為にお逃げ為さるには及びませんと、イイエ本当にお気の毒ですよ。私に妻と云う名が残っている為に何時までも、此の国へ帰る事がお出来成さらないとは。」

 又しても恨みが言葉の端に洩れる。
 次男は迂(う)っかりと口を辷(すべ)らせ、
 「そうです、何うも離縁に帰する外は無いでしょう。それが一番の得策でしょう。」
と云うた。

 妻たる者が自分の口から離縁を云うのは、未だそれほど辛くも無いけれど、人から離縁を賛成せられては腹立たしく感じない譯には行かない。たとえ何の様に離縁と心を決したにせよ、他の人は、
 「短気な事をするな。」
とか、
 「先アそればかりは我慢するのが好いでしょう。」
とか義理にも留めて呉れ相な者だ。

 母上も弟御も、離縁と云えば直ぐその口に附いて、
 「それが好かろう。」
と云う様な調子では、何所に槙子の立つ瀬が有る。槙子は前よりも一層声を震わせて、

 「では阿母さんも貴方も丈夫兄さんから、心の底を打ち明けられて居るのですね。分かりました。分かりました。丈夫兄さんは此の国を立つ時から、離縁の決心でお有り成さったのです。」
 実に槙子の最後の望みの綱も、之で切れた。

 次男「誠に何うも、云うも辛いし云わないのも辛い。槙子さん、けれど世の中には、妙な事情や妙な思い違いが幾等も有りますから、何うか一図に思い詰め成さらない様に。」
と、是から上は云う言葉が無い。

 言葉は有っても口に出す事が出来ない。全く辛い場合である。槙子は最う何の未練な様を見せられる者かと又意地に成って、
 「左様なら伴野さん、是でお分かれに致しましょう。貴方にお目に掛った為、良く事情も分かり、こんな嬉しい事は有りません。」

と云った切り、次男を捨てる様にして家の中へ引込んだ。次男を捨てた譯では無い。変わる顔色を隠す事が出来ない為め、逃げたのだ。きっと自分の部屋へ入るが否や、戸を閉めて泣き伏した事であろう。

 次男は誠に分かれ際が悪いけれど仕方が無い。何だか済まない思いだけれど、槙子の後を追って行って慰める訳にも行かず、思いに沈んだままで立ち去ったが、是より数日を経て、母御の許へ、果たして丈夫から返事の手紙が来た。

 その手紙の外に医者からも一通の手紙が同時に着いたが、それは後の話に譲り、全く丈夫からの手紙は最後の破裂を意味する者である。離縁の決心を知らせて来たのだ。
 アノ様にして纏(まと)まったアノ様な親しい夫婦が、此の様に分かれるとは、誰が云った憂き世と、真に憂き辛き世の様である。丈夫の手紙は少し長いが、

 「槙子が自ら私を欺(あざむ)いたとは、何の事やら全く私の知らない所です。その様な事なら耐へ易いことです。百の欺きも千の偽りも、私は槙子には喜んで許すに違いありません。けれど阿母さん、何うかそうと思わせて置き下され度く思います。

 私は唯だ槙子の為をのみ思い、苦心に苦心を重ねながら、その様に意地悪な不実な男だと思われる事は、辛くは有りますが、槙子の名を汚し、槙子に恥辱を与えるよりは優ります。私を恨む間は、槙子は気も張り、誰の前にも出らるに違いありませんが、若しも事実が分かれば、槙子は恥辱の思いに、此の世には存(ながら)える事は出来ないでしょう。

 槙子の詐欺とか落ち度とか云うのは、多分些細な事だと思います。実は槙子の伯父春山伯からも手紙来ました。伯は私が其の落ち度を知って、その為に槙子を懲らして居る事と思い、余り邪険過ぎると云い、槙子はもう充分悔いて居るから、許して遣れと云い、又何もその様に何時までも責めるには足り無いでは無いかなどと云って来て居りますが、その落ち度とか詐欺とかの内容は書いては有りません。

 それに伯は、若し私が少しでも今の決心を弛める事が出来なければ、正式に離縁の手続きを運ぶ外無いと云われ、何うか出来ない勘弁も一度はして、仲直りして呉れと、実に親切に認められて有りました。阿母さん、私が此の手紙に返事を出す辛さは、貴女より外の人に云う事も出来ません。

 けれど私は是れを幸いに、仮にも夫を欺く様な妻を、妻とは好く思わないからと離婚の条件まで書いて送りました。勿論伴野荘は槙子の物も同然ですので、私に於いては之を取る謂れは無く、領地と言ってもその通りですので、私は唯だ先祖の墓地だけを自分へ請い受ける事に致しました。

 先祖代々人手に渡すべからずと、家の掟に定まって有る伴野荘を、此の丈夫に至って人の物としてしまうのは、先祖にも済まず、取り分け伴野荘を受け戻す為め、長年苦労成された貴女へは、猶更(なおさら)の不幸に当たりますけれども、御諦め下され度く存知ます。

 その代わり、私の留守に生まれたと云う、一子貞夫をも、槙子に与えますので、後々は貞夫が伴野荘の主人と為るに違いありませんから、そうすれば伴野荘は矢張り伴野の血筋に伝はる譯ですので、是で御許し下されますようお願い申し上げます。

 離縁の手続きが済むまで、帰国も出来ませんので、その手続きが済めば一旦は帰国して、直々御詫び致します所存です。。

                       不孝な子より
 慈悲深き母上様

と是れだけの文句である。



次(本篇)六十八


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