巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma9

人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

since 2021.3.20


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)九 「之が老人の恋だろうか」

 風間夫人の鋭い眼力でさえ、槙子の素性を見破ることは出来なかった。妙に槙子は自分の身の上を隠して居る。総ての事に無口である。そうして誰れにも唯だ従順である。誰から何と云われても腹立てるの、抵抗するの、或いは又機嫌を損ずると云う様な事は更に無い。

 しかし之れが決して槙子の天性とは思われない。品格も見識も充分備わって居る女だから、そう意気地無く人に従ってのみ居る筈は無い。之には何か仔細が有ろう。風間夫人の鑑定では、心に余程の悪事が有って、今は後悔に打ち萎(しお)れ、何事も唯だ罪亡ぼしと自分で自分を責めて居るに違い無いと云うので有った。

 何うやら此の鑑定は当たって居る様だ。槙子が初めて此の国に上陸した時、丈夫に向かって自分から悪事があると名乗り。殆ど打ち明け相に仕た事などを思い合わせると、たとえ当たらずとも遠からずだ。そうとすればその悪事は何で有ろう。夫人は是をも種々に鑑定した。

 甚だしいのは、若しや波太郎を殺したのでは有るまいかとさえ疑った。けれど其様な悪事を企計(たくら)企む女とも見えないから、或いは其の実波太郎がまだ生きて居るのに、彼から何か悪計を授けられ、なおかつ彼から何か悪計を授けられて、此の家へ乗り込んだのではあるまいかと疑った。

 成る程波太郎の従来の振る舞いから見れば、旅先で病気でも無いのに、病気と云って父から大金を取ったなどの事は度々あるから、其れが亢じて、死にもしないのに死んだと吹聴する様な事が、無いとも限らない。唯だ此の槙子が、其の様な悪事に加担する様な女だろうか。其の点は疑はしい。

 其れか是かと考えて、何うも是と云う当り当りが附かないので、果ては大小様々の悪事が、幾個も溜まって居るのか知らとも云った。其の中で一つ是だけは確かだろうと夫人が思い詰めたのは、多分波太郎と正式に結婚したのでは無く、野合の果てに児が出来たので、其の児は私生児。其の身は全くの日陰者。決して此の家へ表向き、名乗って来られる身では無いのだろうと云うのに在った。

 此の鑑定だけは外れないと云って、夫人は輪子へも密々(ヒソヒソ)と話したが、若し他日本統の事が分かったなら、是よりも、もっと酷いと云って呆気に取られるかも知れない。

 其れはさて置き、槙子を出迎えた彼の丈夫は、輪子の笑顔にも応ぜずに、自分の家に帰ったが、余程様子が違って居る。母御に向かってだし抜けけに、
 「何して阿母(おっか)さん。輪子は彼の様に不親切でしょう。」
と云い出した。

 母は怪しまない譯には行かない。
 「エ、輪子が不親切、其れは又何う云う譯で。其方(そなた)は先ア輪子を此の世に又と無い行き届いた女の様に云って居たが。」
 丈夫「イイエ、輪子の気質は全く私の見損じでした。阿母さんが輪子を妻にしてはいけない様に幾度も仰有ったが、全く阿母さんのお言葉通りです。」

 何の仔細だか知らないけれど、兎に角丈夫が輪子の地金を見届けて、この様にまで云う事に成ったのは、母御が非常に安心する所である。
 「私は又、其方が露国から無事に帰って呉れた事に就いて、嬉しい中にも、直ぐに輪子と婚礼するなどと云いはしないかと、其れを何よりも気遣って居たが、思い留まってたなら結構です。」

 丈夫「イイエ、阿母さん、思い止まったと云う譯では無いのです。初めから熟考中で、愈々(いよい)よ妻にするとの決心を起こした事も無く、従って其の様な素振りを見せた事も有りません。其の熟考の結果で愈々妻には出来ない女だと、漸(ようや)く見定めが附いたと云う丈なのです。」

 母御は微笑(ほほえ)み、
 「何方(どちら)にしても私へは同じ事の様に聞こえるが、其れにしても輪子の不親切と云う理由は。」
 問われて丈夫は、輪子が初対面から槙子に不親切で有った様を述べ、引き続いて、槙子の傷(いた)わしい事から、其の容貌の美しい事、品位の有る事などを説き、

 「アノ家で若し輪子に憎まれては、到底(とて)も気持ち好くは居られないでしょう。何うか阿母(おっか)さん、近所づからに貴女が目を掛けてお遣り下さい。」
とまでに請うた。素より憐れみ深い丈夫の日頃から云えば、此の様に心配するのも不思議は無いが、其れにしても何だか其の心配が深過ぎる様に見えるので、母御は、

 「槙子とやらへの輪子の不親切が、大層其方の気に障ると見えるネ。其の中には母が尋ねて遣りましょう。」
 其の言葉に少し安心したのか、翌日丈夫はロンドンへ去り、十日ほども帰らなかった。是は用事の為でも有るけれど、一つは今まで尊敬して居た輪子が偽物と分かったので気持ちが悪く、少し其の悪い気持ちに慣れるまで、輪子に顔を合わせ度く無いのだ。

 この様にして二度目に帰って来た時、母は愈々よ槙子を尋ねると言って、丈夫と同道して博士の家へ行った。
 槙子の顔は、公平の目を持って居る人なら、同情を寄せずに居られない様な美しさである。

 母御は何して此の様な美人が波太郎の妻に成ったかと怪しんだが、又思うと我が息子が急に輪子の地金を見届ける事になったのも、若しや此の美しさに迷っての為では有るまいかと疑ったけれど、此の疑いは此の席では口外せず、唯何事も無く槙子の様子をも見、此の家へ来てからの事柄を聞くと、槙子は深くは語らないけれど、憐れむべき有様が自然に分かる。

 豪州から連れて来た乳母も早や暇を遣り、自分独りで赤ん坊を守して居ると云う事で、其が為話も落々とはして居られない様子だ。
 少しの間の対面では有ったけれど、心は双方が案外に打ち解けた様子で、母御は去る時に、
 「暇の時は私の家へ遊びにお出で成さい。」
と云い、槙子も、

 「是非伺います。」
と言葉を返した。
 勿論輪子も風間夫人なども出て来て、一通りの愛想は尽くし、殊に輪子は丈夫だけを後へ引き留め様としたけれども、今度も当てが外れてしまった。やがて母御と丈夫とが門へ出ると、ここには意外な人が待って居た。

 二人を其の家迄話しながら送って行った其の人は誰れ、博士である。博士は伴野夫人の家へ行く機会さえ有れば決して取り逃がすと云う事は無い。たとえ機会が無くとも、自分んで其の機会を作り出しては遣って行く。何だか伴野夫人の許にに居る、内山夫人に逢わずには居られない様子だ。
 是が老人の恋なんだろうか。



次(本篇)十

a:161 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花