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人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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 人の妻 バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳

         

      (序篇)二  「当てにならぬ当て」

 伴野丈夫(じょうぶ)は余り口数きかない男である。喜怒哀楽も人の様に騒々しく現しはしない。けれど千ポンド(現在の4200万円)の手形偽造と聞いて、彼の顔は夕立の空が真っ黒く曇る様に曇った。霹靂(へきれき)の声を聞かなければ収まらないで有ろう。

 次男は兄がこうまで立腹した顔を見た事が無い。否、その喜ぶのを見た事が無いと同じく殆ど「怒る」と云う事を見た事が無いのだ。怒らない人が怒るのだから、恐れを催さずには居られない。彼は兄の顔が曇るのを見て次第に小さくなり、
 「兄さん、実に済みません。何うか充分に叱って下さい。」
と云った。

 実に荒々しく叱られ度い。叱りも何もせずに唯顔を見詰められるのが猶更(なおさ)ら辛い。けれど丈夫は叱らないのみか一言も吐かない。全く言葉には出ないほどの怒り。出ない程の驚きである。
 手形に人の名を書き入れるのは盗賊と同じ事だ。刑法上の罪人だ。明白な詐欺取財だ。丈夫が一言も吐く事が出来ないのは無理では無い。

 「アア家の名が大事で無ければ、俺が縛ってその筋へ引き渡すのに。」
との独言が暫くしてやっと洩れた。けれど次男に向っては何も云わない。
 実に兄の手で縛って、その筋へ引き渡す外は無いが、丈夫は家名と云う事を非常に大事に思って居る。伴野の家、伴野の血筋から、犯罪者を出すのは彼に取って何よりも忌まわしい。他日彼れ自らが人の首を縊(しめ)る様な悲しい場合に立ち到ろうなどとは、勿論思いも寄らないのだから。

 彼が次男に向かってやっと言葉を吐いたのは、凡そ十分間も次男の顔を睨(にら)み詰めた後である。
 「貴様は豈夫(よも)や此の事を、阿母(おっか)さんの耳に入れは仕まいね。」
 彼が母思いである事もこの一語で分かる。何より先に、母上が今の此身と同じほどの、辛い想いを成されないかとの事が気になるのだ。次男は赤くなって、

 「イイエ、最初に阿母さんに相談しました。そうしたら大層な御立腹で、その筋へ自首するなり何なり勝手にせよと云って、相手に仕て下されないから、それで此の通り貴方の所へ。」
 聞きも終わらず、
 「馬鹿め」
との厳しい言葉が、日頃人など罵(ののし)った事の無い口から、思わず洩れた。

 「阿母さんに此の様な御心配を掛けて、貴様はそれを子の道と思うのか。何で第一に兄の所に来ない。」
 次男「貴方には一言に叱られるだろうと思いました。阿母さんなら若しや叱らずにーーーー。」
 丈夫「勿論俺だって一言に叱り度い。けれど次男、俺は此の家を相続して居る丈に、家名を守る義務が有る。叱るのは後にして何より先に、何うとか方法を考えて見なければ成らない。好く先ず事情を聞かせろ。」

 彼は決して女々しく愚痴にくよくよする者では無い。日頃艱難の中に戦って居る丈に、何事の局面をも見るに早く、決断も明白だ。
 「第一に聞き度いのは、誰の名を盗用した。千ポンドの融通も利く人は多くは無いが。」
 次男「天文博士大津倉人(くらんど)の名です。」

 丈夫は長大息を洩らした。
 「人も有ろうに、アノ様な善人の名を騙(かた)るとは、何たる事だ。」
 「でも兄さん、私し一人の仕業では有りません。博士の息子波太郎が、手形を持って来て、自分は字が下手だから、父の名だけ書き入れ呉れと云ったのです。私は一旦断わりましたけれど、父の承諾を経て居るも同然だから、偽造の罪には当りはしない。期限の来る前、必ず父に云って、払って貰う事にするからと、イイエ、波太郎が此の様な事をするのは度々です。私が書いて遣ったのは初めてですが、昨年も或る友人に書いて貰い、是と同じ事を仕たのです。」

 聞いて見ると思ったより幾分か罪が軽い。
 丈夫「唯だそれ丈の事なら、波太郎が支払いを引き受ける筈ではないか。」
 次男「所が何うしても父に打ち明けられない事情が出来たから、如何とも仕方が無いと云うのです。」

 丈夫「貴様に手形の偽造までさせて、そうして遂にその支払いをさせるのか。噂にも聞く蕩楽者(どうらくもの)だから、その様な間違った事を云うかも知れないが、それを又貴様が自分の義務の様に思うとは俺には合点が行かない。」
 次男「イエその金の半分は私が使ったのです。」
 一番先に言うべ事を一番後で言うのが、悪事をした者の癖である。
 少し安心し始めた丈夫は、此の一事に、忽ち元の絶望に返り、

 「何だと、半分使った。それでは何も波太郎に頼まれたなどと、管々しい事情を述べるには及ばない。半分が百分の一にもせよ、貴様が人の名を書き入れて、そうしてその金を使ったなら、全く貴様の責任だ。悉(ことごと)く貴様が払う外は無い。」

 次男「イエ、悉くには及びません。何うか半分お出し下さい。その時には私も返す当てが有りましたけれど、運悪く負けて仕まいまして。」
 博打を知らない丈夫だから「負けた」と云う事の意味も知らず、殊にその返す当てが、博打に勝って返すと云うに至って、当てにならない当てで有った事は、猶更(なおさら)察する事が出来ない。

 「先で負けて遣ると云ったとて、全額払わなければ紳士の道では無い。伴野の家は昔から、その様な責任を軽く解釈する家風では無い。と云って千ポンドは扨(さ)て置き、今月や来月には百ポンドも溜まる宛ては無い。次男、次男、貴様大変な事をして呉れたなア。」

 愚痴で無い男でも愚痴を云わない譯には行かない。
 又暫く考えた末、
 「好し、好し、次男、兄が引き受けた。俺はもう何も云わないから安心せよ。だが、貴様も満更の馬鹿では無いから、此の後は良く前後を考えて事をせよ。」
 未練無く言い切る言葉が何か非常の決心を起こした様に察せられるから、次男は却って気遣(きづか)わしく、

 「でも兄さん、此の屋敷を人手に渡すのでは無いでしょうね。」
 丈夫「人手には渡したとしても、その手形の間には合わない。俺は明朝大津博士の許へ行き、貴様と波太郎のした事を打ち明けて、充分に詫びも云い、兎も角一時だけその手形を切り替えて貰う様に良く頼む。」

 次男「でもそれは余り貴方に。」
 丈夫「ナニたとえ手形は貴様と波太郎とて博士に知らせず、期限通りに払ったと仮定しても、既に俺の耳に入った上は、兄の役として男が一時でも博士の名義を盗用した事を詫びなければ済まない。」

 何所までも正直一方である。
 次男「貴方はきっとお辛いでしょうが。」
 丈夫「ウム、俺は日頃、博士の名も聞き、著書も読み、何うか一度は逢い度い者だと思って居たが、此様な事で初対面をするとは全く辛く、日頃尊敬して居る人だけに、辛さを倍も二倍も感ずるーーーけれど止むを得ないのだ。」

 丈夫が是ほどまで云うのは、良く良く辛い為である。」



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