ikijigoku27
活地獄(いきじごく) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ボア・ゴベイ 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
since 2018.5.27
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活地獄(一名大金の争ひ) 黒岩涙香 訳
第二十七回 引き込まれた伊蘇譜(イソップ)
乞食の子供が差し出だした紙切れは、正しく柳條健児より我が身に送った手紙である。柳條、今何所(いずく)に在るか。何故に自ら来たらずして、乞食の児に手紙を托したのか、瀬浪嬢はそれ等の事を考える暇もなく、轟く胸を推し鎮めて手紙の文を読み下した。
「嬢よ、私は既に御身の父に見捨てられました。今まで既に三度まで御身の父に委細の事を言い送ったのに、御身の父は私を見捨てたのか、一片の返事もありません。」
さては我が父、柳條より三度も手紙を受けながら、その返事をせぬのみか。私にまでその事を隠して居たのか。
「嬢よ、私が行いは実に過(あやま)っていました。分に余る大金を得んが為、兼ねがね止められていた歌留多室に入って行って、終(つい)にこの様な難儀を仕出かした事は、返す返すも言い訳のしようがありません。御身の父が立腹して、私を見捨てるのも無理はありません。しかしながら私は、我心に問いて恥ずる事はありません。此の上は唯御身に訴えて、御身の心を問う外はありません。
御身も早や既に父と同じく、この柳條を見捨てましたか。御身にまで見捨てられたならば、私は最早や望みもありません。何を頼みに生き存(ながら)えましょう。嬢よ、私は今から三日の間、御身の返事を待ちます。三日の中に返事がなければ、御身も又父と同じく、私を見捨てた者と思い、私は全く断念(あきら)めましょう。
断念(あきら)めて、このまま寝床の中に死するだけです。嬢よ、御身は私を許しますか。否(いや)、私のこの度の行いは実に悪い。御身もし許さないとならば、私はこの世に望みの無い人です。この世に命なき人となりましょう。もし又御身が私のこの度の行いを許すとならば、私は再び御身に逢い、共々に御身の父に詫びるのを楽しみとし、この命を取り留めましょう。
嬢よ、私の罪を許せ。父と同じく私を失望の谷底に落とさないでください。嬢よ、私はこの手紙が、必ず御身の手許に届くことを知っています。今から三日の間、一日千秋の想いで御身の愛深き返事を待ちます。
健児より瀬浪嬢へ
」
是だけで手紙は終わった。何時何所から出した者か日付もなし。町所もなし。察するに町所は、是まで父に送ったと云うその手紙に記してあって、私が既に知って居る事と思って居るのに違いない。父がその事を私に告げないのは何故だろう。理由は知らないが、一度決心した事は、飽くまで変えない父の気質、必ず仔細の有るのに違いない。町所はこの子供に問えば分かるだろうと、
「お前は誰に此の手紙を頼まれた。」
子「頼まれたりは致しません。拾いました。」
嬢「ナニ拾ったと」
子「ハイ、ここから三十町(3km)も離れて居ますが、昨夜その町を通って居ると、この紙切れを石に巻き付け、高い塀の中から投げました。ナンでも私の足音を聞いて投げたのですから、私に拾えと云う事だろうと思って拾い上げて見ますると、この紙切れの外に未だもう一つ紙切れがありました。」
嬢「ドレもう一つの紙切れとは。」
子「是です。」
と差し出すのを受け取り読むと、
「誰」でもこの手紙を拾った人は、宛名の所までお届け下され度い。尤も他人の手に落ちては困りますので、必ず当人へ御渡しの程お願い申し上げます。後に充分にお礼致したいと存じます。」
とあり。
是で見れば、柳條は何所にか閉じ込められて、自由に手紙を出す事さえ出来ない身となっているのに相違なく、それに手紙の文中に、
「このまま寝床にて。」
とあるをの見れば、怪我か病の為、打ち臥せているのに相違ない。是だけ分かったのは何よりの幸いであるが、分かった後で何うして打ち捨てて置かれよう。直ぐに我が家に馳せ帰り、父に相談した上で救い出す工夫をしようか。
イヤイヤ父は三度まで手紙を受けて返事しないとの事だから、相談して返ってことを駄目にするかも知れない。それに又手紙に三日の間とあり、日附けがないので、何時出した者なのか分からない。今日が早や三日目なるかもしれない。そうだとすれば一刻の猶予も出来ないと、嬢は少しの間に思案を定め、又も件(くだん)の子供に向かって、
「シテ此の手紙を拾った町は。」
子「エンファと云う寂しい町です。」
嬢「私を其所まで連れて行ってお呉れ。」
子供は嬢の熱心に驚いた様子で、
「直ぐにですか。」
と問い返したが、嬢は、
「ハイ直ぐに」
と間も置かず答える言葉に、
「それでは私に付いて入らっしゃい。」
と先に立って歩きだした。嬢は続いて歩きながら、子供の身の上を問うと、この子は捨て子で養育院に育てられたので、父も知らず母も知らない。
一昨年十才で或学校教師の家に住み込み、小使いを勤めながら、その人から読み書きを教えられ、伊蘇譜(イソップ)と云う奇妙な名まで貰ったが、今は其の教師が死んだ為、人の情けで世を送って居るとの事なので、嬢は不憫の情を催おし、
「好し好し、今日から私が不自由なく養ってて遣るから。」
と云うと、子供心に深くその恩に感じた者の様だ。この様にして行く事数百mにして、終にエンフア街に達し、伊蘇譜(イソップ)は其所此所(そこここ)眺めた末、古い高塀の傍に足を留め、
「確かにこの塀の中から投げたのです。」
ここと分かったが何うしよう。事に慣れて居ない少女なので、空しく辺りを見廻すばかり。塀の尽きる所に、非常に古い二階作りの家があるが、住んで居る人が居るのか如何か。入口の戸をまで鎖(とざ)し、叩き問う方法もない。
この辺りは、一帯に静かな所で、往来の人さえ見えないので、嬢は殆ど思案に余り、翔(つばさ)あれば、この塀を一越えに飛び越すのにと、恨めしそうに佇(たたず)む折しも、今見た二階屋の入口から、戸を開いて徐(おもむろ)に現れて来た老人があった。
藍色の稍々(やや)褪(さ)めた上着を着て、竹の杖を下げた様は、何う見ても豊かに暮らす隠居である。嬢は地獄で仏の思いがして、足早やにその傍に進み寄って、
「もしこの内に若い男の方がお居(いで)では無いでしょうか。」
老人は嬢の顔を充分に眺め、
「唯若い男では分からないが。」
嬢「アノ陸軍士官で怪我ーーですか病気ですか―――寝床に就いて居る。」
老人はぶっきらぼうな調子で、
「怪我か病気か何方(どっち)だ。」
嬢「多分怪我かと思います。」
老「フム陸軍士官なら決闘ででも怪我したのか。」
嬢「それは何うですか。今は非役の身の上で」
老「名前は何と云う。」
名前まで云うのは好ましくは無いが、ここに至っては云わない訳にも行き難く、
「ハイ柳條健児と申します。」
老人は直ぐに返事をせず、嬢の頭の上から足の先まで眺め終わって、
「イヤ私は直ぐ其所(そこ)に住むけれど、この家の者ではないから、この家の事は少しも知らない。実はこの庭の番人に野菜の種を買いに行って、今出て来たのじゃ。この家の入口へ行って問うが好かろう。」
と云い捨てて立ち去りながら、塀に添った露路の中へと入り去った。
この老人は何者だろう。それは読者の推量に任せて置き、嬢は老人の言葉に従い、件(くだ)んの入口へと進み行こうとすると、伊蘇譜は之を留め、
「お待ちなさい。私が問うて来ましょう。今の老人は何だか目の色が恐ろしい様ですから、若し貴女に間違いがあっては了(い)けません。」
と宛も我が主人を保護する様に、先に立って走って行ったので、嬢はその親切に感心し、こちらの方から見て居ると、伊蘇譜が入口の戸を叩くと同時(ひとし)く、内より応と答えて少しばかり戸を開くと見えたが、忽ちその隙間から、非常に荒ら荒らしい手を差し延べ、伊蘇譜の襟髪(えりがみ)を引き掴(つか)んで、軽々と釣り上げながら、苦もなく戸の内に引き入れて、元の様に戸を卸(おろ)した。
伊蘇譜の姿は全く見えなくなった。嬢の驚きはどれ程だったことか。
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