ikijigoku31
活地獄(いきじごく) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ボア・ゴベイ 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
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活地獄(一名大金の争ひ) 黒岩涙香 訳
第三十一回 待って居た町川
柳條健児は伊蘇譜(イソップ)を引き連れて、角三の家を立ち去った。外には屹度(きっと)瀬浪嬢が待って居るに違いないと思って居たのに、見渡しても誰も見えない。扨(さ)ては嬢、我が出て来るのが遅いのに待ち兼ね、何処かに立ち去ったか。
そう気短く立ち去るべき筈はないがと、再び以前の紙切れを取り出して見ると、文字は明らかに嬢の筆、文句は正(まさ)しく、
「君よ、君の手紙は一通も父に届かず、唯私に宛(あ)てた最後の分のみは、乞食の子に拾い上げられ、私の手許に届きましたので、私は取り敢えずその子供に案内せられて、御身の居所まで尋ね行ったのですが、その家の人、邪険にも戸の中にその子供を引き摺り込み、その儘(まま)締め切って、私を入れません。又その子供をも出しません。
私は御身が邪険なる人々に閉じ籠められて居るのを知りました。外に救うべき道が無いので、文礫(ふみつぶて)として此の書を送ります。御身はこの書を受け取り次第、何とかして家の外に出て来て下さい。御身の友は御身を待って居ます。若し出て来る事が出来なければ、御身の友は別に又救い出す工夫を施しましょう。」
云々(しかじか)とあり。
御身を待って居ますと記しながら、我が身を待つ者が居ないのは何事だと少し心に失望すると、それと共に俄(にわか)かに身体の臥草(くたびれ)たのを感じ、足の進まないのは無理もなかった。傷所は既に癒えたとは云え、三週間も寝床に就き、その挙句まだ体力も定まらないうちに、先程からの劇(はげ)しい働きなので、心が弛むのと同時に力まで抜けたものである。
蹌踉(よろめ)きながら塀に依り掛かって、伊蘇譜に向かい、
「昨夜この塀の外で紙を巻いた石を拾い、それを先方まで届けて呉れたのはお前か。」
と問う。伊蘇譜は暗い穴倉の中から急に出て来たばかりの事なので、日の光に眼が眩(くら)んだか、両の目をパチパチと閉じながら、
「ハイ、それから嬢様と一緒にここまで来ると、アノ家から竹の杖を突いた老人が来ましたから、柳條と云う若い男がこの家に居るか。」
と問うと、
「俺は近所に住むけれど、この家の事は知らない。」
と言って、直ぐ其所の露地へ入りました。」
柳條ハ口の中で、
「その老人が角三だな。」
と呟(つぶや)き、
「フムそれから。」
伊「ハイそれから嬢様が御自分で戸を叩こうとなさるから、若し間違いでもあってはならないと、私が行って案内を乞いますと、内から強い男が手を出して私しを引き入れ、そのまま穴倉へ閉じ込めました。」
柳「その後で嬢は何うした。」
伊「何うなさったか私は存じません。」
柳「ハテな、それは困ったなア。」
柳條が思案する体を見て、伊蘇譜は甲斐甲斐しく、
「旦那、お疲れなら私の肩へ掴まりなさい。何所まででも行きましょう。」
と云う。その優(しおらし)さに、柳條は思わずも笑みを催し、
「イヤそれには及ばない。」
と言ったまま、我が行く先を考えて見るに、今までの宿は、その筋の探偵が、厳重に見張って居ると云った角三の言葉の真偽は兎に角、何分安心の所では無い。
だからと言って、この儘(まま)上田栄三の家へも行き難い。ここは友人町川の許を訪うのが一番だ。彼に万事を相談して見ようとこの様に決心して、塀を離れ伊蘇譜の肩を杖として、頼りなくも町の真ん中に歩み出ると、凡そ半町ばかり離れた所に、一輌の辻馬車があった。
是こそは天の與(あた)えたものと、漸(ようや)くその所まで辿り行ってみると、悲しいことにこの馬車は既に何人をか載せている者で、窓から手先が見えるのみならず、その馭者が頻(しきり)りに中にいる客と、何事をか話して居る様子である。
此の上は仕方がない。馬車のある所まで、歩いて行こうとその車の横手を避け、通り過ぎようとする折しも、馬車の中に小さい声があり、
「入れ。入れ。」
と聞こえるので、振り向く途端に差し出す顔、豈図(あにはか)らんや、頼みに思う町川である。
「イヤ君が何うしてここに。」
町「ナニ君を救いに来たのだ。サア早く乗り給え。その児供も一緒に、サ。」
言葉に応じて、伊蘇譜と共に飛び乗ると、町川は馭者に向かい、
「門苫取(モンマルトル)の隅に当たる、ヂョアン街の我が店まで急がせよ。」
と命じた。
柳「だが君何うして僕を救いに来た。」
町「無論、瀬浪嬢に頼まれてサ。」
柳「それで嬢は何うして今何所にーーー。君の家に待って居るだらうナ。」
町「先ア急ぎ給うな。そうは了(い)かないよ。嬢は君を迎いに来て、この伊蘇譜が引き摺り込まれたから、早々に僕の家に遣って来た。それで僕が一切を引き受けて、先程の文礫(ふみつぶて)も僕が投げ込んだ次第だが。嬢は君の手紙を見てから、又父にも逢っていないから、委細の事を打ち明けて君の為に詫びする為、家へ帰った。」
柳「エ、父に詫びする為ーーー。それでは何だな。栄三は僕の仕打ちを立腹して居るな。」
町「立腹もするだろうよ。婿夫(むこ)にすると云う約束が整ってから、一週間立つか経たないかのうちに、行方も知れず、音沙汰もなしだ者。何所の父だとて立腹するワネ。」
柳「併し君」
町「併しはないよ。君の実際の事情を打ち明ければ、立腹も直るだろうが、今は未だ事の訳を知らないから。それで嬢が委細を打ち明けに行ったのサ。」
柳「そうすると君ーーー。」
町「イヤ柳條君、色々聞度い事もあろうが、先ず僕の家へ着いてからに仕たまえ。僕も又緩緩(ゆるゆる)話そう。」
と是にて柳條の言葉を停(とど)め、町川は更に伊蘇譜に向かって、
「お前は人の情けにその日を繋いで居る相だが、奉公して些(ち)と仕事を仕度はないか。」
伊蘇譜は熱心に、
「ハイ、口さえあれば、何の様な所へでも住み込みたいと思います。」
町「字を読む事は出来るか。」
伊「ハイ、読む事も書く事も。」
町「では俺の店へ使って遣る。日々田舎から送って来る品物の番号さえ帳面へ着ければ好いのだ。追々は勉強次第で、又何うともする事として。」
伊蘇譜は一方ならず喜んで、幾度か礼を述べた。
その中に馬車は早やヂョアン街にある町川の家に着いた。
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