巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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活地獄(いきじごく)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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   活地獄(一名大金の争ひ)    黒岩涙香 訳

   第三十五回 角三の手紙 

 ここにも又一通の手紙がある。その文。
 「私の信任する棒田夫人よ。心憎いのは先日塀の外から文礫(ふみつぶて)を投げ込んだ娘だ。彼(あ)の文礫を読んでから、柳條は終に我が家を立ち去る事となった。彼がもし引き続いて我が家にあれば、私の心配はそれだけ少なかったのに、今は到る所心配だらけである。是だけで御身は既に私の旅行が、容易ならない事を知った事と思う。夫人よ。実に安心ならない道中になったとは云え、私は無事息才にペリゴーへ着いた。

 万事出来るだけ旨く遣ったので、彼(あ)の大金の一条は無難である。少しも恐れる所はない。しかしながら、唯残念なのは、私の出発が一日遅かった爲め、何者かが、私の目的を嗅ぎ知った形跡がある事だ。

 私の乗った馬車には二人の相客があった。一人はボード街の酒店で、私が二度ほど見かけた事のある商人である。彼れは少し馬鹿にして、自慢話の外に何の能もなく、且つは全くの聾(ろう)なので恐れるに足りない。殊に私は巧みに姿を変えて居るので、彼は少しも私の顔を見覚えて居ない。たとえ見覚えていたとしても何の害もない。

 只もう一人の背が高く色の黒い相客は、油断のならない男と見受けられる。彼は陸軍の士官で、軍馬買い入れの為と言って居るが、当てにならない。乗り込んでから絶えず私の顔を偸(ぬす)み見る様子は、最も巧みな探偵のようだ。私も又折々彼の顔を偸み見るに、彼髪の毛から眉、髯、睫毛まで真っ黒であるが、何うも拵(あつら)えた者のようだ。私は何所かで彼を見た事がある。

 そうだ確かに彼を見た事がある。しかしながら容易には思い出さない。彼も私と同じ想いであると見え、翌日にオルリーンで昼食した時、彼は巧みに私の眼鏡を跳ね落とした。私はその手を食わず、直ぐに拾い上げて掛けたので、彼はまだ私の真の顔を知らない様子だ。

 彼は私が眼鏡を拾い上げるのを見て、様々に言い訳し、
 「何うもツイ時計の鎖が搦(から)みましたので。」
と云ったけれど、ツイ搦(から)んだのではない。わざとと搦ませた事は必定である。私は益々油断せずに、唯彼の本体を見破ろうとのみ務めて居ると、終にその目的を達した。

 食事が済んで再び車に乗った頃から、天気の暑い事はどうしようもなく、彼は馬車の隅に靠(もた)れて居眠りを初めたので、私は穴のあく程その顔を見ると、彼の左の頬に大きな痣(あざ)があり、痣に二、三本毛の生えているのを見る。彼は昨日か一昨日、この毛を剃り落とした者と見られるが、痣の毛は外より延び易い者である。

 彼の顔に射す日の光に透かして見ると、微(かす)かに毛の根を認める事が出来た。その毛の根は良く見ると非常に赤い色をしていた。アア彼、髪の毛、眉毛まで黒く染めたけれど、痣から突き出る毛の根までは染めることが出来なかった。

 私はそれから自ら眠った振りをし、目を閉じて彼の真実の顔形を考えて見ると、暫くにして、はっきりとその顔が胸中に浮かんで来た。アア彼は私が前から怪しいと思っていた奴であった。曾て手袋店の女工を郵便局に連れ行き、今井兼女の手紙を得ようとし、あべこべに私の後を尾(つ)け、私を不敬の罪に落とそうとした奴である。

 剛敵剛敵油断がならない。その後小根里に探らせ、彼が高等国事探偵で、深く警視総監の恩顧を受けている事は、聞き知って居たが、彼が何故に此の度の旅行を思い立ったのかは、今以て知っては居ない。

 私は最近まで大暗室の長を勤め、深く政府の機密を知って居るので、政府がもし私を民間に放して置くのは危険であると思い、内々私の挙動を探らせる爲に、この男を私に附けて置くのではないかとも思われるが、それにしても彼が以前に今井兼女の手紙を得ようとした事は不思議なことだ。此の事から考えて見れば、彼れは私と同じく、兼女を探す目的であることに相違ない。

 今に見ろ、一泡吹かせて遣ると私は絶えず心に期して居る。然るに彼れは不埒にも、返って私に一泡吹かせた。此の日の午後に及び馬車は坂道に掛かり、乗客三人とも降りたので、私は以前に彼が背丈を五寸ばかり延び縮めする事を知り、彼が歩み振りの異様なことを知って居たので、更に念の為にその後ろ姿を見ようと、わざと一足遅れたところ、彼れは得たり畏(か)しこしと、馭者を欺き私を後ろに残したまま、例の聾(ろう)商人の手を取って馬車に乗り、一鞭当てて逃げ去った。

 私は殆ど当惑したけれど、幸いに百姓の空馬が後ろから来るのを見たので、分外の賃を遣(や)って之を雇い、後から追い掛けると、次の駅(宿)で追付く事が出来た。彼は非常に気の毒そうに、様々の言い訳をしたけれど、私は当然彼を信じて居ない。

 是より何事もなくペリゴーに着き、今は三人同じ宿屋に在る、是から愈々(いよいよ)運動に取り掛かる筈であるが、委細は重ねて報告しよう。夫人よ、私の幸いは御身の幸いである。大金愈々私の手に入ったなら、私は以前の約束に従い、年々六千法(フラン)の給金を御身に与えよう。我事と思って留守を大事にせよ。

 澤子はきっと柳條の事を聞いて来るだろうが、是も既に言い附けてある通り、私と共に婚礼の相談を為す為め、旅行しているので、近日私と共に帰って来るだろうと言い聞かせて置く様に。元より大金の一条は夢々澤子の耳には入れるべからず。その他の人には猶更である。以上取り敢えず申し通ずる者である。匆々(そうそう)。
        ペリゴーの宿屋にて
                                 栗 角


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