ikijigoku5
活地獄(いきじごく)(一名大金の争ひ)(扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ボア・ゴベイ 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
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活地獄(一名大金の争ひ) 黒岩涙香 訳
第五回 珈琲店の先客
前に記した様に、此の頃は国王再び巴里(パリ)に帰ろうとし、英国の兵に助けられて、市街の外で戦っている時であるので、紳士柳條は其の友町川に分かれてからも、空しく我が家に帰るより、新聞紙を読んで、今日の戦争の模様を見るに越したことは無いと、直ぐに伹(と)ある珈琲店に入って行くと、ここには唯二人の客があった。
一人は年六十にも近いと思われる老紳士で、給仕を相手として何事をか語らっている。今一人は毎夕新聞を取り上げて、余年もなく読んで居るので、其の顔は新聞紙に隠れて見えない。更に四辺(あたり)を見廻すと、此の外には一枚の新聞紙もない。依って柳條は明き次第毎夕新聞を借り受けようと思い、其の人の向かいに腰を下ろし、凡そ二十分ほど待っていたが、其の人はまだ読み終わらない。
若しや読み掛けて、居眠りしているのではないかと柳條は指でテーブルの上を三つ四つ弾(はじ)くと、其の人は初めて新聞紙を下に置き、
「何か私に御用ですか。」
と尋ねた。
柳條は先ず其の人の容貌を見ると、髪の毛は長く延びて肩まで垂れ、それ加え、肉痩せて頬骨出て、眼に深い光があって、奥の方から人を射る様子は、わざと我を愚弄するかと疑われる。血気に早る柳條なので、早やムッと癪(しゃく)に障り、目に角立てて再び其の人の顔を見詰めた。其の人は柳條が唯己(おのれ)の顔ばかり眺めるのを見て、宛も嘲(あざ)笑う様な調子で、
「是は可笑しい。騒々しくテーブルを叩くから、きっと用事だろうと思えば、唯人の顔を見る丈の事か。」
と失敬な語を放ち、又も新聞紙を取り上げようとする。柳條は少し迫込(せきこ)み、貴方は何時まで其の新聞を読むのです。私の待って居るのが分かりませんか。」
と鋭く問うと、
其の人、
「イヤ分からない事もないが、今し方読み始めた所だから、未だ貴方には貸せません。雑報から広告まで残らず読んで仕舞うのが私の癖ですから、読み度いとならば、邪魔せずに静かにお待ちなさい。」
此の口振りは、充分柳條を怒らせたけれど、だからと言って深く咎める理由もないので、空しく気を燥(苛)らだてて控えるばかり。其の人は益々図に乗った様に、面白そうに声を発して芝居見世物などの広告を読み始め、果ては独り言を発して、
「アア流石は巴里の人民だ。町の外で戦争があるのに、それには少しも気にかけず、芝居だの見世物などを騒いで居る。実に浮世は斯(こ)う行き度いものだ。国の為だの自由の為などと、固い理屈を吐いて世を騒がせる奴等の気が知れない。」
と言ったので、柳條は最早や耐え兼ね、容赦もなく手を差し延べて其の新聞紙を掴(つか)み取り、
「貴方は何者か知らないが、当て付けにも程がある、国の為だの自由の為だのとは誰の事です。」
と問詰めると、彼は充分に落ち着いて、
「ハハア、貴方も気の知れない一人と見えますな。」
柳「コレは益々聞捨てられない。」
其の人「是は可笑しい。他人の一人言を一々聞き咎め、それを喧嘩の種にしては。」
と言い掛けて打ち笑った。
柳條は何で此の無礼を許すだろう。火ッと怒って我名刺を取り出し、之を其の人の前に差し附けた。この様な場合に名札を与えるのは、決闘を言い掛ける徴(しるし)である。
其の人は静かに名札を取り上げ、柳條の名を見て宛(あたか)も非常に驚いたものの様に、眼をピカピカと光らせていたが、忽(たちま)ち何食わぬ色を粧(よそお)い、
「フム非役陸軍中尉柳條健児か。中々好い名前だ。」
と云って名札を己(おのれ)が衣嚢(かくし)に収(おさ)めた。
先ほどから室(へや)の一隅に在って、給仕と語らって居た老人は、此の喧嘩が始められようとした時から、様子ありげに頻(しき)りに此方を眺めて居るのは何故だろう。しかしながら柳條はそれには気も附かず、更に件(くだん)の相手に向かい、
「サア貴方の名札をお出しなさい。」
其の人は更に落ち着き、
「イヤ物騒な此の節柄の事だから、簡単には名札は渡されません。」
柳「とは又卑怯な。明朝此方(こっち)から介添人を差し向ける故、宿所姓名を聞いて置かなければ。」
其の人「貴方の方から介添人を送るとは順序が違う。実は貴方が私を辱めた事だから、介添人は此方から送ります。貴方の宿所姓名さへ分かって居ればそれで好い。」
柳「では明朝間違いなく私の宿まで介添人を寄越しますか。」
其の人「爾(そう)だな、それは此方の都合次第サ、随分忙しい身分だから、明日送るか明後日送るかは、その時が来なければ分からない。」
此の人、若し一通りの紳士ならば、この様な卑劣は言葉を吐く筈はない。恥じもなく、名誉も知らず、徒(いたずら)に人の挙動を探ろうとする其の筋の探偵に相違ないと、柳條は初めて気付いたので、又一層の怒りを加え、容赦もなく此の場で打ち懲らして呉れよう、と突然長杖(ステッキ)を振り上げて、唯一打ちに彼が眉間を打ち砕こうとすると、彼は敏速(すばや)いこと飛鳥の様で、肩に垂れた長い髪を振りながら、身を返せて空を打たせ、其の儘(まま)テーブルの間を潜って戸外(おもて)の方へ飛び去ったので、柳條健児は其の後を追掛けて、続けて戸外に躍り出で、十間(18m)余りも行ったけれど、其の姿さえ見えなかったので、
「エエ残念な事をした。」
と呟(つぶや)いたけれど、根が訳も無い喧嘩なので、直ぐに又思い返し、遠からず瀬浪嬢と結納をも取り交わすべき身で、此の様な事に我命を賭けるべきではないと、元来た方へ一足踏み返ろうとすると、此の時忽ち我前に立ち留まる人があった。誰かと見ると、たった今まで珈琲店の隅に居た、彼の老人であった。
柳條は是も又探偵の片割れで、我が後を追って来た者ではないかと思うので、言葉さえ荒々しく、
「何故俺の後を尾(つ)けて来る。失敬な事をすると叩き殺すぞ。」
と杖を上げて罵(ののし)ると、老人は周章(あわて)て飛び退き、
「イヤ待った、実はお前に言い聞かせる事があって態々(わざわざ)ここまで尾いて来たのじゃ。」
と言う。其の様子は訳(わけ)がありそうに思われた。
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