巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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活地獄(いきじごく)(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2018.5.6


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      活地獄(一名大金の争ひ)    黒岩涙香 訳

      第六回 大暗室の支配人  

 縁も縁由(ゆかり)もない老人が、我れに何事をか言い聞かすため、ここまで態々(わざわざ)尾(つ)いて来たとは、怪しむべき限りなので、扨(さ)ては此の老人も又探偵の一人で、我が身の上を探ろうとする心に違いないと、柳條は早くも見て取ったので、

 「ナニ、お前などに言い聞かされる事は無い。」
と遠慮もなく跳ね退(の)けると、老人は事ともせず、
 「イヤそう思うのは間違いだ。誰でも他人の意見を聞けば、必ずそれだけの得がある。お前は未だ知らないだろうが、今しがた、お前に喧嘩を仕掛けた髪の長いアノ男は、其の筋に使われる国事探偵だぜ。

 お前は其の探偵に名札を渡し、自分の姓名を知らせたから必ず用心しなければならない。此れから我が家へ帰っても、事に由ればアノ探偵が既に手下の者を遣り、お前の帰りを待たせてあるかも知れない。それよりは私の言葉を聞き、一身の無難を計るのがお前の身の為であろう。」

と云う其の言葉は尤もなれど、甘言を以て人を誘い、巧みに其の人の近づきとなるのは、探偵の計略なので、柳條は少しも此の老人を信ぜず、
 「ナニを言うのだ。その様な事で威(おど)しても驚く様な己(おれ)ではない。家に探偵の手下が待って居るなら猶更帰って見なければならない。此の上さらに色々の事を言うと、手前の頭まで叩き砕くぞ。」
と言い捨て、後をも見ずスタスタと立ち去った。

 老人は暫(しば)し其の後を見送って、
 「エエ失敗(しくじ)った。充分威しが利くだろうと思ったら、意外にも大胆な若者で、此の俺までも探偵と思ったか、遂々(とうとう)行って仕舞ったワい。先程探偵の読んだ名札で見れば、何でも非役陸軍中尉柳條健児と云った様だが、非役なら少しばかりの給金だから別に裕福な事もあるまい。

 幾等かの金を遣って、俺の手下へ引き入れるには丁度好い男だのに、アノ強情では仕方がない。そうだな、少し俺の言い様が悪かった。親切ごかしに持ち掛けたから、かえって彼れを怒らせたのだ。アノ男なら手下にして、一件の方へ使うには最も適当だが、取り逃がしは実に惜しい者だ。併しそれも今となっては悔やんでも後の祭り。ナニ外に未だ幾等も適当な男はあるだろう。」

と独り我が失望を慰めようとする様に打ち呟く所を見れば、此の老人は何か心に謀(たくら)む事があり、金を以て柳條を取り入れようとする事は必然である。頓(やが)て又思い定めた様に、

 「イヤここに斯(こ)うして立って居た所で仕方がない。明日にも今までの政府が転覆して、新政府の世となれば、俺は免職と極まって居る。そうと分かって居る者を、何も便々(べんべん)《のんべんだらり》と待つには及ばない。此方(こっち)から断然辞職するに限る。そうサ、辞職するに付けても、その後の計画もあることだから、今夜は此のままアノ暗室へ行き、常の通り事務を取ろう。」
と、此の様に云って独り頷(うなず)き、又も其の所を立ち去ろうとする。

 抑(そ)も此の老人は何者だろう。其の独言(ひとりごと)の様子からすると、今の政府に使われる身に相違ないが、よもや通例の探偵である筈はない。何時もの様に暗室に入って事務を取ると云うことは、何の事だろう。暗室で事務を取るのは、写真師の外には無いれど、此の老人は政府に雇われる写真師とも思われない。そうだとすれば果たして何者だろう。

 是れは外のことではない。昔から仏国の政府が、秘密中の秘密とする大暗室のことである。大暗室と云うのは、何所の町に在って、如何なる事をするのか、総理大臣警視総監及び其の他の係官の外は一人も知って居る者は無い。

 大暗室の目的は私(ひそ)かに人の手紙を開封し、其の中の文句を読み、怪しいと思う物は写し取って警視総監に知らせ、其の手紙は元の様に封に納めて、又郵便に差し出すのだ。だから其の手紙の差出人は云うに及ばず、受取人に至るまでも途中で其の手紙の開封がなされ、其の文句が写し取られた事を知らずに安心して受け取るのだ。

 若し政府によって此の様に人民の手紙を開封する事が、世間一般に知れ渡ったならば、世人は手紙に心を許さず、大切な内緒事は一切手紙に記さない事と為る筈であるが、世人は之を知らない。手紙の封は何人も破る事は出来ないものと思われて居ることから、国事犯人も其の国事犯の打ち合わせを手紙に記し、泥坊も其の押し入りの相談を手紙に書く。

 それが為め早くも政府の知る所となって、事未だならざるに捕縛の身となる者が多いのだ。この様に手紙開封の事務を取る所、之を大暗室と云う。後々に至り仏国の憲法に、
 「政府は人民の信書の秘密を冒し得ず。」
と明記する事となったのも、偏(ひとえ)にこの大暗室の為だと言われる。

 それは扨(さ)て置き、大暗室の支配人である彼の老人は、呟きながら其所を立ち去って、コキリー街に行き、伹(と)ある立派な家の前に立ち、四辺(あたり)を充分に見廻して、人の居ない事に安心した様に、静かに衣嚢(かくし)から一挺の鈎(鍵)を取り出し、
 「此の家が恐ろしい大暗室とは誰も知る舞い。それに或豪商の隠居だと世に知られて居る此の栗山角三が、大暗室の支配人とは猶更ら知って居る人はいない。」
と呟き終わり、戸を推し明けて内に入った。そうすると此の老人の名は栗山角三と云うと見える。角三は内より出で来た小使いに向かい、
 「もう手紙が来た時分だが。」
と云うと、小使いは声に応じ、
 「ハイ明朝の一番汽車に積み送る手紙が五十通ほど只今逓信省(ていしんしょう)から参りました。」
と答えた。

 栗山角三は頷(うなず)いて、非常に奥まった事務室に入って行くと、硝燈(ランプ)の光朦朧として薄暗いテーブルの上に一束の手紙あり。其の表に現はれた一通の上封には、
 「非役陸軍中尉柳條健児様」
とあり、老人は之を見て先ず驚き、オヤオヤ先程のアノ強情者も矢張り政府から、うさん臭いと見認(みと)められた一人と見える。成るほどアノ気象では、どう見ても国事犯を遣り兼ねない。」
と呟(つぶ)やいた。



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