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活地獄(いきじごく) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ボア・ゴベイ 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
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活地獄(一名大金の争ひ) 黒岩涙香 訳
第六十三回 自殺の決意
上田栄三が非常に恐ろしい決心を起したのは、唯借金を恐れての為では無い。罪なきお梅を殺したのみか、それが為、我が婿になるべき柳條健児に、莫大な財産を失わせた我罪の重さを知り、打ち続く不幸も総てその罪の酬(報い)であると悟って、潔よく天の裁判に服す為、ここに自殺の心を起したものだ。
その心実に哀れむべきではあるが、その娘瀬浪の境遇も又甚だ哀れむべきである。瀬浪嬢は唯彼の伊蘇普(イソフ)を友として、之に我が嘆きを打ち明けるほか、心を寄せる者も居ない。今日しも居間の内に閉籠り、窓の外に置いた盆栽を打ち眺めて、深い溜息を発するばかりである。
伊蘇普はその心の中を押し計ることはできなかったが、我れが馬平侯爵に逢い、柳條救い出しの一条を頼んだ次第を打ち明けたなら、幾分か嬢を慰めるのに足りるのではと思いながら、
「嬢様何をその様にお嘆き為されます。」
と問う。嬢は又深い溜息を吐き、稍々(やや)あって、
「此の花は昨年私の誕生日に柳條さんが呉れたのを、私が盆(鉢)に移し、今も此の通り咲いているのに、本人の柳條さんは、私の此の次の誕生日まで生きている事かーー。」
と言いながら涙に咽(むせ)んだ。
伊蘇普は我知らず熱心の色を現わし、
「イエ柳條さんは必ず助かります。ご安心なさい。私が請け合いますから。」
嬢は此の言葉の異様なのを怪しみ、
「お前は何故その様な事を云う。」
と問い返す。
伊蘇普は打ち明けて好いか、隠した方が好いか、子供心の思案に余ったので、暫しがほど嬢の顔を見守るばかりだったが、漸くに思い切って、
「若し」悪かったら謝罪(あやまり)ます。貴女に聞いてから仕ようかと思いましたが、貴女が余りお鬱(ふさ)ぎですから、黙って仕ても好いだろうと思いアノーーー」
嬢「好かろうと思って何をしたのだエ。」
伊「柳條さんが馬車から落ちた侯爵を助けたと聞いて居ましたから。」
侯爵との一語に嬢は早や打ち驚き、
「エ、馬平侯爵かエ。」
伊「ハイ侯爵に情けがあれば、柳條さんを救い出して呉れるだろうと思い、私はーーー」
嬢「お前は侯爵に逢ったのか。」
伊蘇普は口籠りながら、
「ハイ、その屋敷へ行きました。下僕が私を追い出そうとしましたけれど、その時侯爵が出て来て何事だと大層親切に聞いて呉れました。」
嬢「それから」
伊「それから牢に居る柳條健児をお救いくだされと云いましたら、私の顔を充分眺めた末、三日の中に貴女の所まで返事を持って行くと云いました。」
嬢「何だと、私の所へ。」
伊「ハイ」
嬢「私はアノ人に逢わないよ。来ても逢いませんよ。お前は私の名をアノ人に云ったのかエ。」
伊蘇普は早や打明けた事を後悔したが、偽(うそ)を云う力もないので、その首を打ち垂れて、悄然々(しおしお)と、
「ハイ貴女からの使いだと申しました。」
嬢は聞いて忽(たちま)ち顔を赤くし、
「それはお前、好くない事をしたよ。アノ侯爵は柳條の恋ーー。」
と言い掛けて口を塞いだ。
伊「悪かったら許して下さい。デモ侯爵は屹度(きっと)柳條さんを助けて呉れますよ。それに貴女くらいの若い女も、矢張り柳條さんを助けて呉れと、侯爵の母君へ願いに来て居ましたから、私は助けて呉れると受け合います。」
アア伊蘇普は益々禁制の場所に入ろうとする。
嬢「なんだとエ、若い女が」
伊「ハイ立派な着物を着て、供を連れ丁度貴女位ですよ。」
嬢「それが柳條健児を助けて呉れと云ったのかえ。」
伊「ハイ爾(そう)すると母君が警視総監に話して遣ろうと言いました。その女は嬉しそうに帰って行きました。私の考えでは、何でもソレ、貴女と一緒に柳條さんを救いに行った、エンフア街のアノ家の娘だろうと思いますよ。矢張りアノ家の下僕が供に就いて居ましたから。」
柳條が怪我の為に、一月ほども留められた彼の家に、娘ありとは今聞くのが初めてなれど、一時は必ず外に女のある為に違いないと疑った事もある。その疑いが誠となり、我身の外に柳條を助けようとして、侯爵の家にまで入り込んで行く熱心な淑女ありとは、心憎い。嬢は口の中で、
「では柳條さんが助かっても。」
と呟いたのみで、後は首を垂れて思いに沈んだ。
伊蘇普は嬢の心を汲み取る事が出来ず、あたふたとして居たが、この様な所へ、静かに入り口の戸を開いて入って来たのは、嬢の父栄三である。その顔色は、強いて恐ろしい決心を隠くそうとする様子であるが、何となく悲しそうである。流石に親子で、嬢は尋常ならない思いをしたのか、一目見て、
「オヤ阿父(おとう)さん貴方は何うなさったの。お顔の色が毎(いつ)もとは。」
栄「イヤ何でもない。」
と言って伊蘇普の方を一寸見遣ると、彼れは心得て此の部屋を退いた。栄三は我が顔色を隠そうとしたが隠すことが出来なかった。
突(つ)と嬢の傍に寄り、抱き寄せて嬢の顔を我が胸に押し当てた。胸の内に打つ波は嬢の顔にまで響いて居るに違いない。栄三はこの様にして、少しの間に我が顔色を作り直し、漸くに嬢を離して、
「此の程も話した通り、色々商業上の手違いで大金の入り様が出来たから、私は古い貸金の残りを取り纏(まと)める為、英国へ立とう思うが。」
嬢「オヤ英国へ何時。」
栄三は、
「明日の朝」
と答えたが、我が命明日の朝限りかと思うと、思わず一滴の涙を落とした。嬢は心敏(さと)く、
「オヤ貴方は何故泣きます。英国へ行くお積りではありますまいーーー貴方はーーー」
と後は口に出ない。
栄「英国でなくて何所へ行く者か。大抵二週間で帰る見込みだが、商業上の事だから都合に由れば、一月掛かるかも知れない。その留守に唯伊蘇普(イソフ)と下僕だけでは、お前もきっと心細かろう。それだから良く町川に話し込み、留守中お前を預って貰う事にする。」
嬢は怪しいと思わないではなかったが、真逆(まさか)に我父が自殺する心だとは悟ることが出来なかった。
「留守の事は何うでも好う御座いますから、貴方お早くお帰りを。」
と云われて栄三は、最早や我顔を嬢に合せる事が出来ず、その儘(まま)振り向いて、
「アア店で会計が呼ぶ様だ。」
と紛らした。
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