kettounohate1
決闘の果(はて)(三友社 発行より)(転載禁止)
ボア・ゴベイ 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
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決闘の果 ボア・ゴベイ作 涙香小史 訳述
第一回 決闘に向かう三人
我が国には維新以前に果し合いの風俗があった。此の頃又決闘の説行われている。然れども決闘の最も盛んなのは仏国(フランス)である。意見が合わなければ直ちに決闘し、争う事があれば忽(たちま)ち決闘す。凡そ仏国(フランス)の紳士にして、生涯に一度も決闘の味を甞(な)めない人は居ない。法律に之を禁ずと雖も、昔よりの風俗なるが故に、裁判官も深くは咎めない。若し善からぬ手段を以って、欺(だま)し打ちの様な所為がある時は、直ちに人殺しの罪に問うと雖も、正直な手段を用いて正直に闘う時は、反(かえ)って其の人の名誉と為る。故に其の闘いの仕方も厳重に定まって居て、少しも之に背くことを許さない。
余は好んで英仏の書を読むが故に、略(ほ)ぼ決闘の規則を知っているので、之を我が国に知らしめる為に、筆を取って訳述しようと企てた事も数次(しばしば)あるが、終に無用の書である事を免れないと自ら思い留まった。
此頃取り寄せた彼の国の小説中に、決闘の有様を写すのみならず、中に幾多の波瀾を交え、弾丸に死す才子があった。剣に伏す美人があった。悲喜艱難から人情の波瀾まで、群がり絡み合って紙上に躍動している。読んで見てぞっと寒気がした。
唯単に真正の決闘を知るのみならず。又以て彼の国の紳士貴婦人社会の秘を探る事が出来るとともに、心を慰めるに足りる。必ずしも無用の書として捨てられない。よって鈍筆を駆けて訳述し、緑雨兄に乞い願って、東西新聞の紙上に載せる。唯だ筆の鈍気が為に、原作の妙を悉(ことごと)く知らせることが出来ないことは、自ら深く憾(うら)む所である。読者に乞う。之を許るされよ。
決闘には必ず六人の人を要す。其本人及び介添人二名、其の相手一人、介添人二名なり。
聊(いささ)か読者記憶の為、其の人名を掲げて置く。
本 人
若紳士 桑柳守義
第一の介添人
同 大谷長寿
第二の介添人
外科医師 小林康庵
又一方は
本 人
紳士 本多満麿
第一の介添人
同 古山禮造
第二の介添人
陸軍士官 藻岸中尉
頃は昨年の春も未だ寒い頃、仏国(フランス)の都、巴里府の町はずれに在る練兵場を指して急ぎ行く一輌の馬車があった。中には三人の紳士を乗せている。孰(いずれ)れも黒い礼服を着け、その釦(ボタン)を首までも〆上げている所を見れば、非常に真面目な用向きであるに違いなく、野外の散策に新鮮の空気を貪る者では無い。道路工事に従事している二三の人足が、鋤を置いて彼(か)の馬車に指さしながら、
甲「見ろ彼所(あすこ)へ決闘の連中が行くワ。」
乙「何でも此の先の練兵場だぜ。」
丙「爾(そう)サ。彼所なら日曜日の外には練兵も無く、人ッ子一人通らないから、荒鉄(あらかね)の御馳走には持って来いだ。」
乙「骨休めに見物して来ようじゃないか。」
甲「馬鹿を言え。あの馬車に刃物を載せて無い所を見れば、短銃(ピストル)の打合いだ。流れ弾にでも当たっては詰まらない。止せ、止せ。」
と噂する中、馬車は早や行き過ぎて行った。
此の職人らの推量に違わず、馬車の中の三人の紳士は、全く「荒鉄の馳走」に行く者である。実に命の遣り取りなので、三人とも自ずから鬱(ふさぎ)勝ちではあるが、中に一人大谷長寿と云う介添人は、事に慣れた紳士と見え、敢えて騒ぐ様子も無く、八字の髯を撫でながら、本人桑柳守義に打ち向かい、
「君は短銃(ピストル)の射的に掛けては、仏国第一等とも言われる名人なのに、先が短銃で闘い度いと言い出したのは不思議だよ。其の癖、相手の本多満麿は撃剣を心得て居るのに、何故長剣を選ばないのだろう。」
桑柳は年二十五歳なれど婉然たる一個の美少年である。今まで深く考へ入る様子であったが、初めて其の顔を上げ、
「爾(そう)だナ。何故に短銃と言い出したのか、先で定めたから僕には分からない。」
大谷「それは先が定める筈だ。君が大勢の紳士の前で、本多の頬を殴ったのだもの。即ち恥じを受けた方が武器を選んだのだ。」
桑「爾(そう)サ。彼の様な失敬な事を言う奴は殴って遣るのが当然だ。僕の歌牌(かるた)を切るのを見て、宛(まる)で田舎者の様だと言うのだもの。」
大「左様に猥(みだら)に田舎者などと言うのは穏当(おだやか)で無い。併し歌牌場では随分有り勝ちの事だから、殴る程でも有るまいよ。それを君が突然(だしぬけ)に殴っては、先も黙っては居られないから、それでは決闘と斯(こ)うなったが、先の介添人に一人怪しい奴が有るテ。何うも彼奴(あいつ)油断の出来ない奴だ。」
今まで無言に控え居た第二の介添人、医師小林康庵も初めて口を開き、
「フム彼(あ)の古山禮造か。彼奴(きゃつ)は花を引くにも如何様(いかさま)を遣ると言う説が有るから、決闘にも狡(ずる)い事をしないとは受け合われ無い。本人桑柳守義は気を燥(いら)立てる様に、
「ナニ何うでも好い。先が狡い事すれば僕が殺される迄の事だ。殺されても闘いさえすれば好い。何うしても本多と闘い度いと、以前から僕は望んで居たから。」
此の言葉を聞き、大谷長寿は心の中にて、
「扨(さ)ては此の度の決闘は、歌牌(カルタ)場の喧嘩が元だと言うけれど、もっと深い遺恨が有るのだナ。夫れで日頃から互いに殺す積りで、決闘の折の有るのを狙って居たのだ。併し何の遺恨だろう。幼い時から一緒に学校へ行き、今日が日まで兄弟の様に分け隔て無く交際(つきあ)って居る此の俺に、桑柳が打ち明けて言わないとは、ハテな、女の事だ。
爾(そう)だ。何うしても鞘当てと言う気味が有るナ。そうだとすれば尚更(なおさら)桑柳に勝たせてやりたい。先方の介添にはイヤに手先の利く彼の古山が居るのだから、若しや短銃(ピストル)へ何か細工でも仕はしないか。」
この様に考えながらも、同役の小林康庵に向かい、
「サア、もう戦場が近くなったが、君今日用いる短銃(ピストル)は無論正直な製造で有ろうネ。」
小「正直とも、昨日僕が古山と二人で鉄砲店へ行き、同じ筒を二挺買い、弾までも目方に掛け、それを箱へ入れて錠を卸し、箱は古山が預かり、鍵は僕が預って居るのだから、幾等手先の利く古山でも如何様(イカサマ)は出来ないよ。」
大「では安心だ。それで決闘の約束は、二十歩離れて立ち、三発で勝負を定めると言うのだから、フム、二十歩(あし)と言えば随分近いけれど、大した怪我が無くて済めバ好いが。」
この様に言う中に馬車は早や練兵場の入口に着いた。但見(とみ)れば彼方の一方には、早や相手である本多満麿、二人の介添人に従われて、我が一組を待ちつつある。
アア此の決闘、当人同士に如何なる深い遺恨があるのだろう。又如何なる事に成り行くのだろう。誰も之を知る者は居ない。頓(やが)て三人馬車を下りると、本人桑柳守義は様子ありそうに大谷を傍(かたわら)に呼び、声を潜めて語るには、
「僕は此の勝負で見事に彼を殺すか、見事に自分が殺されるか、何(いず)れにしろ無事には済まさ無い。若し僕がが死んだ時には後生だから君に頼む。君自身で森山嬢の所へ行き、僕が負けたと言うだけの事を、君の口から嬢に知らせて呉れたまえ。」
大谷はこの頼みに愕然として驚いた。森山嬢とは如何なる令嬢ぞ。桑柳が命を捨てようとする際に、まだ其の心に掛かっているとは何の様な訳だろう。
読者に乞う。回を追って解き分けるのを待て。
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