巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

kettounohate23

決闘の果(はて)(三友社 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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     決闘の果   ボア・ゴベイ 作  涙香小史 訳述
         

      第二十三回 夫を決めた

 大谷長寿は春村夫人の屋敷の後ろ庭の内に於いて、夫人と愛の言葉を交え、ここに目出度く夫婦約束を調(ととの)えた。少しの間は二人とも唯嬉しさに我を忘れ、顔と顔を眺め合うばかりであったが、この様な所へ一通の手紙を持ち、近づいて来た夫人の下僕(しもべ)、大谷の傍に寄り、

 「唯今貴方のお宅(うち)からこのお手紙が届きました。」
と差し出す。大谷は既に夫婦の約束が済んだので、分け隔てする所なしと言う様な身振りで、自分ではその手紙を開かず、直ぐに夫人へ手渡する。夫人は一目見て、
 「オヤオヤ、これは公証人から来た手紙です。私しに遠慮は要りません。。サア早く読んで下僕(しもべ)をお帰しなさい。」
と再び大谷に返した。

 大谷はこの許しを得て忙しく封を切って読み終わり、返事に及ばぬと言って下僕を帰し、その後で夫人に向かい、
 「実に奇妙な事がある者です。私しの公証人と桑柳守義の公証人は同じ人ですが、此の手紙で見れば、桑柳守義の遺言状が出て来たと申します。

 夫「ヘヘエ桑柳さんの遺言状が、それでは今まで紛失でもして居たのですか。」
 大「ハイ先ず紛失して居た様な者です。実は桑柳が私に書き残した手紙の中に、遺言状云々(しかじか)と書いて有りましたけれど、肝腎の一字が鉄砲の弾丸に射貫かれたため、何所に在るか今まで、分からずに居たのです。

 それを此の頃何者とも知れぬ者が、無名の手紙に封じ込めて公証人まで送り届けたと言うのです。コレ此の手紙を御覧なさい。」
 夫「それは成るほど奇妙ですネ。先ず貴方も読んで聞かせて下さい。」

  大谷は心得て読み始める。その文に、
 「至急申し上げ候、今朝無名の手紙で、故桑柳守義氏の遺言状を拙者の許まで送り来たり候故、篤(とく)と検めて見ると、全く桑柳氏の自筆にして、その書式聊(いささ)かも規則に背いた所之なく、充分に効力ある者と認め候。

 その主意に由れば、財産は悉く森山嬢に遺し、それに就(つ)い万事の手続きは大谷長寿に依頼すと之あり候。猶ほ奇妙なる事というのは、遺言状の内に在る但し書の一条に御座候。即ちその文句は但し森山嬢は自ら愛する彼の人に婚礼されたく、若し彼の人の妻とならなければ、此の遺言状は取り消す者なりと有之候。

 彼の人とは何人であるか分かりませんが、自ら愛する彼の人と有りますので、その意味は甚だ広く、誰であっても嬢自らが愛する人と結婚するならば、勿論此の遺言状は有効の事と存じます。それで委細は御面会の上申し述べたいと思いますので、何とぞ至急御来訪賜りますよう様お願い申し上げます。」
とある。

 夫人は聞き終わって、
 「これで見れば、貴方は直ぐに行かなければならないでしょう。」
 大「ハイ今お別れ申すのは、実に辛いと思いますけれど、致し方がありません。」

 夫「でも奇妙では有りませんか。嬢の自ら愛すると書いて有る所を見れば、桑柳は自分の外に未だ一人、嬢に愛せられて居る人が有ると言う事を知り、その人と婚礼をさせ度いと思って死んだのですネ。」
と星を指す此の言葉は、大谷の心に響かない訳ではなかったが、大谷は桑柳の死に際の一言を、全く血迷っての戯言(たわごと)と思って居るので、

 「嬢は君を愛して居る。」
の声はまだ耳の底には残っているが、自ら打ち消して心に掛けず、
 「そうですね、如何にもその様に思われますけれど、それを今更彼れ是れ言っても、彼の人とは誰の事だか分からないから、仕方が有りません。公証人の言う通り、詰まり誰と婚姻しても但し書きが活きる訳だから、心配するにも及ばないでしょう。それにしても不思議なのは、この書置きの出所です。全体誰れが何所から見出して何故に送り届けた者か。」

  夫「誰か桑柳の友達でしょう。友達にその遺言状を預けて置いたのでしょう。」  
  大「イヤ私より外に友達は無い筈ですが。」
  夫「でもその様な事は何うでも好いでは有りませんか。」
  大「そうですね、何うでも好い様な者の、この書置きの出るのが遅そかった爲に、親類縁者が田舎から遣って来て、動産だけは売って仕舞いました。」

 夫「だって不動産は残って居るのでしょう。その不動産が悉く森山嬢の物と為れば、嬢は誰とでも婚礼が出来ますよ。私の考えでは、アノ小林康庵さんと夫婦にすれバ好いかと思います。」
 大「それは駄目です、小林は生涯妻を持たないと言って、堅く独身主義を唱へて居る男ですから。」

 夫「ナニ独身主義も当てには成りませんよ。貴方も私も世間に知らぬ者が無い程の独身主義で有りましたのに、気の合った相手に出合えば、此の通り婚礼の約束が出来たでは有りませんか----。でも先アその様な事は、後へ廻し私しは何より喜ばしいと思います。

 私と貴方ばかり夫婦約束が出来ても、森山嬢の身にも何か祝い事が無ければ、物足りない心地がすると思って居たその矢先へ、此の知らせが来たのですもの、サア直ぐに嬢に此の事を知らせ、その上二人の心が変わらぬ先に、嬢と小林さんへ夫婦約束の披露をしましょう。」

  大「ハイ、それは好い事ですが、嬢ハ事に由ると桑柳の財産を受けないかも知れません。先日逢った時も其の様な口振りでした。」
 夫「成る程、嬢の清い心では受けないと言うかも知れませんが、ナニ私が追々に説き諭し、受け取る様に仕向けます。」

 この様に言いながら、二人は彼の新築の離れ座敷の方に行った。森山嬢は今しも丹青の筆を置いて小林康庵と頻りに絵の事を話して居たるが、大谷の姿を見て宛も加勢を乞おうとする様に、

 「ネエ大谷さん、小林さんのお説では春の部へ東洋の牡丹を加へるのが好いだろうと仰有りますが、牡丹は夏の部だと私は言うのです。」
 大谷は非常に真面目に、
 「イヤその様な事には、至って不得手な方で、未だ東洋の牡丹を見た事さへ有りませんが。----しかし今日は是から直ぐに、桑柳守義の事に付き、公証人の許まで行かなければ成りませんので、私だけ是でお暇に致します。」

 嬢の顔は此の言葉で、その色が少し変わったけれど、大谷は気にも留めず。
  「実は桑柳の遺言状が出て、貴女を財産の受嗣人に定めてあると言うことですから、
 嬢「オヤ私を桑柳の受嗣人に。」
 夫人は代わって、

 「そうです、和女(貴女)に一切の財産を譲ったと言うから、お目出度い事だと思います。」
 嬢「そのお言葉は誠に有難うございますが、でも私は受け取りません。」
 夫「とは何う言う訳で。」

  嬢「その訳は先日大谷さん迄お話し申して置きましたから、大谷さん何うぞ公証人へ左様にお伝へを願ひます。」
 大「伝えても見まするが、遺産を辞するには、又夫れだけの手続きが有りますから。」
 嬢「ハイ、その手続きは尽くします。」

 夫人は又一歩進み出、
 「如何にも和女が受け取らないと言う清い心は感心だが、何も今ここで極めてしまうにも及ばない事、篤と又考へて決心をするが好い。それよりも先ア、私の目出度い披露を聞いてお呉れ。私は所天(おっと)を持つ事に成りましたよ。」

 世に恋人の神経ほど鋭敏(するど)い者は無い。嬢は早やこの言葉に大事な大谷を失ったと悟ったのか、パッとその顔を紅め、
 「オヤ貴女が。」
 夫「ハイ私しが。シテ誰を所天(おっと)に定めたとお思いだ。当てて御覧ナ。」

 嬢「イエイエ私には当たりません。」
 夫「それでは本人を見せて上げよう。ソレ此の大谷さんが私の所天です。夫婦の約束が調いました。」
 嬢は騒ぐ顔色を隠す事が出来ないまま、
 「それは何よりお目出度うございます。」
と澱みながらも祝った。

 嬢の心はどんなだろう。しかしながら夫人も大谷も、互いの嬉しさに目が暗み、嬢の尋常ならない様子に、気も附かず、独り小林康庵のみは、眼の隅から充分に見て取った。
 アア得意の人、失得の人、嬉しさと悲しさーーー。



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