kettounohate30
決闘の果(はて)(三友社 発行より)(転載禁止)
ボア・ゴベイ 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
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決闘の果 ボア・ゴベイ 作 涙香小史 訳述
第三十回 両足を折った夫人
臆病な馬の狂い走るほど危ういものは無い。一直線に頭の向かう所を指し、遮るものが有っても避ける事を知らず、力が足りなければ蹴倒して過ぎ、力に余れば当たって我が命を損じ、斃(たお)れた後止むとは、荒れ狂う馬の事を言うものだ。だから彼の者が春村夫人の馬車に近づいた時、馭者がその馬の臆病なことを知っているが故に、今驚かせては一大事と、直ぐに鞭を振って曲者の頬を打ったけれど、その甲斐はなかった。
曲者は打たれながらも、早や既に馬を充分に驚かした者と見え、馬は宛(さ)ながら筒口を離れた丸(たま)の様に、目にも止まらぬ速さを以て駆け出した。曲者も同じ速さで逃げ去ったので、医師小林は之を捕らえようとし、直ぐに追掛けたけれど、如何にせんその追い初める前に、馬を止めようか曲者を追おうかと、心に少し躊躇の気味があったため、その隙を得て曲者は早や幾足か逃げのびた。
逃げたからと言って逃がすものかと、一町(約100m)あまり追って行ったけれど、彼も必死の事なので、その足の速い事、小林の足に優り、益々その間が遠ざかるのみなので、小林は大喝連呼し、
「泥坊だ、泥坊だ。誰か押さえて呉れ、誰か押さえて呉れ。」
と呼ばわったけれど、生憎にも路行く人は少なく、その上に他人の事に手を出して、証人と成って警察に呼ばれるよりは、息迫(いきせき)切った小林の様子を見るのが面白いと思うからか、曲者の前を遮ぎろうとする者も無い。その内に早や曲者は四辻に達したが、ここに彼の青塗りの馬車が先程から待って居た事と見え、戸を開いて曲者を入れ、雲を霞と走り去った。
此の上は追っても仕方が無い。それよりは春村夫人が彼の馬車に乗ったまま、何所まで行ってしまったのか、その安否を見届けようと乃(すなわ)ち道を考えると、馬の頭は確かラフエ街の方に向かって居た。そうだとすれば、ラフエ街で聞き合わせれば、その行方は必ず分かるだろうと、小林は我が身を鎮めも敢えず、直ちにラフエ街を指して行くと、その街の入口に路(道)行く人が群衆して、頻りに何事をか私語(ささや)き合っている。
小林は胸先轟き、
「行く人は常に人の不幸に立ち停まる。」
との俚諺(ことわざ)も有るので、或いは夫人の馬車がここで砕けたのでは無いかと群衆まで来て、群衆を押し分けて進み入ると、アア是我が思って居た以上の不幸である。先ず小林の耳に入る群衆の評言(うわさ)。
甲「左の方から走って来て、この門を曲がろうとしたから、衝き当たったのだ。]
乙「ナニそうじゃない。堀端から真っ直ぐに駆けて来たのだ。」
丙「馬鹿を言うな。真っ直ぐに来た者がアノ記念碑へ衝き当たる者か。」
丁「それは馭者が不慣れだからよ。」
戌「馭者は上手だけれど、生憎と向こうから荷車が来たのサ、それを反(かわ)した者だからこの様な事に成ったのだ。」
己「そうだそうだ。確かに荷車の来たのを見た。」
康「全体此様な所に記念碑などを建てるのが悪いと言う事よ。」
辛「記念碑じゃ無い。憲兵の立番所の為、煉瓦で此の様に積み上げたのだ。明日一日で屋根迄出来上がる様に成って居るワ。」
壬「そうだ。此頃新たに出来たから、馭者も之が有るとは知らずに居たのサ。」
癸「無駄口を叩かずに、誰か医者の所へ駆け付けて遣る者は無いか。見ろ、夫人はもう死んで居るワ。」
十人十色の口実(いいぐさ)も事柄は唯一個、春村夫人の大怪我を評(うわさ)しているのだ。小林は一目先ず夫人の姿を見て、我が脈さえ停まるばかりに驚いた。
夫人は建ち掛けた立番所の許に横たわり、生きているのか死んで居るのか、唯顔色が死人より青くなっているのを見せているのみ。小林は馳せ附けて抱き起し、
「夫人よ、お気を確かにーーー。」
夫「アー痛々。」
小「小林です。康庵です。」
夫「痛タタタ。」
小「もう大丈夫です。ご安心なさい。」
その身体を動かすたびに、夫人は非常な痛みを感ずると察せられる。感ずる中は命は未だ尽きてはいない。小林の声が通じてか、僅かにその眼を見開いたが、流石は嗜みの良い夫人なので、是よりは二度と見苦しい言葉を発せず、強いてその顔に笑みを現わし、
「大した事は有りません。馭者を見て遣って下さいまし。」
小「ナニ馭者は男です。死んでも怪我は有りません。イヤ怪我しても死にはしません。貴女は何所を打ちました。」
夫「もう巡査が来て今釣り台を二挺取に行きました。私は両方の足が折れましてーーーー。」
小「ヤヤ足が、それは大変です。ここでは診察も出来ませんからーーー。エエ早く釣り台が来れば好いナア。」
夫「イエ私は好う御座いますから、馭者を見て遣って戴ましょう。馭者は何しました。」
我が身の苦痛に悩みながら、更に馭者の様子を問う。小林はその天晴な心に感じ、
「それでは馭者を見ましょう。」
と言って又立ち、一方に振り向けば、頭を砕いて死に果てた馬の傍に、立とうとして立つこともできず、同じく痛みに悩んで居るのは是れ御者である。
「旦那済みません。夫人に大怪我をおさせ申して、自分が此の様に達者で居るのは。」
小「ヤ、お前は怪我も無いのか。」
御「有ってもナニ軽う御座います。右の肘を逆に折ってそれに腰が抜けたと見えます。でも私は外に居た丈怪我が軽いのです。」
小「成るほど肘が折れて居るワ。オヤオヤここへ骨が突き出て居る所を見れば、何るほど腰も抜けて居る。それほど軽い怪我でも無い。」
御「軽くては夫人に済まないと思いましたが、重いだけ安心しました。旦那アノ畜生太い奴です。何でも私しか夫人に怨みの有る奴です。私は余っぽど変だと思い、用心は仕て居ましたから、直ぐに
鞭の紐を以て頬片(ほっぺた)へ巻附くほど擲(なぐ)って遣りましたのに、それでも逃げて仕舞いました。」
小「それでは紐の当たった丈、頬が赤く痕に成るから曲者は直ぐに分かる。」
御「旦那私は未だここで腰を抜かして居ながら、大変な物を拾いました。曲者が分かりさえすれば、是を証拠に訴えます。」
小「ナニ、大変な物とは何だ。書類か名札の類か。」
御「其様(そん)な立派な品では有りませんが、ここでは見せられませんから、後で御覧に入れましょう。」
アア馭者は如何なる品を拾ったのだろうか。
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