kettounohate35
決闘の果(はて)(三友社 発行より)(転載禁止)
ボア・ゴベイ 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
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決闘の果 ボア・ゴベイ 作 涙香小史 訳述
第三十五回 あの紳士
桑柳は決闘に殺され、春村夫人は馬車の転覆に傷つけられる。此の二件共に本多満麿の仕業と分かったが、森山嬢の指図なのだろうか。嬢と本多とは如何なる間柄なのだろう。是れは大谷と小林が探りに探って只管(ひたすら)に証拠を得ようとする所である。証拠は遠い所に在るのではない。追々に挙がって来るに違いない。
それはさて置き、今日は春村夫人が怪我に逢った翌日である。夫人は仰向けに寝台に横たわり、傍らには医師の小林洪庵が居る。枕頭(まくらべ)には大谷長寿が居る。傷の痛みも薄らいだと見え、顔色も何時もの様に戻り、二人を相手にして機嫌好く雑談している。
「ネエ、小林さん、本当に直りましょうか。」
小「ハイ請け合って直ります。切り傷とは違いますから、痕も見えない様に成ります。万事コレほど好都合に行った事は今まで見た事が有りません。」
夫「そう聞けば安心ですが、若し跛足(びっこ)にでもなれば、婚礼の約束も取り消さなければ成らないかと、もうそれが苦労でーーー。」
と言い出すと、大谷長寿は半分聞いて、
「オヤ跛足になれば何故婚礼の約束を取り消します。私は又貴方が跛足になれば自分の足を切り捨て、貴女と同じ跛足となって愛情の深い所をお見せ申す積りです。二人揃って跛足になれば、生涯何の様な事が有ろうとも、二人の心は外へ移らないから、此れほど仕合せな事は無いと思います。」
と最熱心に最真面目に述べる。
夫人は此の親切を汲み取ってか、
「貴方にその様な事をさせて済みますものか。」
と殆ど涙ぐむのは日頃の気性に似ない。
小林は中に入り、
「イヤ気の詰まるお話しは先ず一切止しましょう。貴女が跛足になる筈も無ければ、ヨシ又なった所で、大谷の心が変わるものでは有りません。全快して愈々婚礼の式を行うまでは、私が預かって置きます。アハハハ。」
夫「イエ、何だか自分で愚痴っぽく成ったと思いますよ、ホンに此(こん)な話は止めましょう。それはそうと森山嬢は何うしたのでしょう。此の様な時に嬢が来て傍に居て呉れれば、どれほど好いかと思いますよ。」
森山嬢の名に小林と大谷は目と目を見合せたが、今は嬢の恐ろしい心を暴いて、夫人を驚かせる時では無いので、無言のままに控えているのみ。
夫「ホンにそう思います。嬢は何したのか、一昨夜帰ってから音沙汰も有りませんが、何か私の行いに、気に入らない所が有ったのでは無いかと気に掛かります。私は何も嬢の機嫌を損ねる様な事はしていない積りですけれどーーー。何うにかして嬢に逢って、そう言いたいと思いますワ。」
大「ナニ貴方、そう言うには及びません。貴方がアレほど目を掛けて遣ったのに、却って機嫌を損ずる様なら、恩知らずの女と言う者です。捨てて置くのが好いでは有りませんか。」
是から更に二時間ほど彼れ是れと談話していたが、小林は余り話が長過ぎては、却って夫人の為に悪く、最早一休み眠らせる時刻だと思ったので、遠慮なくその旨を告げ、
「イヤ私も大谷も晩ほどに又伺う事として、一先ずお暇に致しましょう。既に十時から二時まで四時間も話し続けていますから、お身体に障ると了(い)けません。」
夫人は残り惜しそうに、
「身体に障ると言われては仕方が有りません。今は此のままお帰し申しますが、その代わりに是からお二人とも、毎日二度づつは必ず来て下さらなければ了(い)けませんよ。」
小「それは必ず参ります。
夫「それに大谷さんへは大変なお願いが有りますよ。是から直ぐに私の使いに成って、森山嬢の所へ行って下さいな。嬢は未だ私の怪我をした事も知らずに居ましょうから、話せば必ず来るだろうと思います。何うか私が待って居るから是非来て呉れと仰(おっしゃ)って頂きたい者ですが。」
最早や森山嬢は夫人が情けを掛けるに足らず、全く夫人の敵にして遠ざけるべき者ではあるが、大谷には別な理由があって、是幸いに嬢に逢い、今までの疑いを探り出そうと思って居るので、
「心得ました。直ぐに参りましょう。」
と引き受けると、小林もその深意を知って居るので、別に止めようとはしない。此の様にして二人は暇(いとま)を告げ、門口迄出て来たが、小林は踏み止まり、
「アア忘れた事がある。序に馬丁(別当)を見て遣らなければ---彼奴は昨夜腰が抜け一通りの手当はして置いたけれど、今日は何うなったかーーー君少し待ちたまえ、一寸容態だけ見て来るから。」
と言いつつ門の傍(かたわ)らにある馭者室に進み入り、又暫時にして出て来た。
「馭者の怪我は夫人よりズッと軽い。腰の抜けたのは案外早く直る者で、もう既に起きて居るワ。主人に怪我させて済まない事と思うと見え、繰り返し繰り返し曲者の顔に鞭の痕が附いて居るから直ぐに分かるとそればかり言って居る。」
大「そうか。その曲者を捕らえたい者だネ。」
小「イヤ其奴は唯本多から頼まれた丈だから、捕らへても仕方が有るまい。それよりは君、森山嬢と本多と共謀して居る証拠を探さなけば。」
大「そうとも、それだからその曲者を捕らえれば、若しや証拠が上がるかと思って。」
小「成るほど挙がらんしとも限らないサ。併し僕の考えでは、別に証拠を上げなくても、二人の共謀して居る事は充分に分かって居る。」
大「イヤそうと言い切る事は出来ない。分かって居る様に見えて未だ分かって居ないから。第一君は本多と森山嬢とが何う言う関係が有ると思う。本多が森山嬢の手先に使われる筈が無いじゃないか。」
小「そうサ、僕もその点を充分に考えて見たが、二人は野合(くっつ)いて居る丈の事だ。」
大「それにしても可笑(おか)しいじゃ無いか。」
小「イヤ可笑しく無いよ。本多は紳士とは言う者の、吾々唯倶楽部で一緒に成る許かりで、深くは知らないが、兎に角大した財産は無いのだ。
歌牌(カルタ)などに勝って漸(やっ)と紳士の上部(上辺)を張って居る男だから、嬢と野合しても夫婦には成れない。外に財産のある女を妻にする気で居るのだ。森山嬢もその通り。本多を所天(夫)にすれば、生涯貧乏する丈の事だから、そこで二人が組み合ってーーーーこの様に言うと嬢が非常な毒婦に聞こえるが、全く毒婦だ。ーーー組み合って嬢が君の妻になり、君の財産を十分の一でも手に入れれば、それを二人が山分けにするとか、或いは又桑柳の様に遺言状を書かせて置いて、旨い具合に決闘でもさせ、君を無き者にしてしまい、後でその財産を以て本多と夫婦になるとか、何でも此の様な約束があるのに違いない。」
大「成る程、君の想像力は大した者だ。そう言う所まで想像するとは感心の外はない。」
小「想像では無い、是れは推理だ。」
とこの様に言いながら歩むうち、小林と大谷とが分れる路まで来たけれど、小林は敢えて分かれず、唯大谷が森山嬢に逢い、何の様な事をするか、一刻も早くその様子を知るために従って行って、門の外に待って居ると云い、更に大谷と共に行った。
やがてとある横道に出ると、此の時向こうから歩いて来て、
「小林さん」
と声を掛ける者があった。誰かと見れば倉場嬢である。
「オヤ嬢か。」
嬢「アノネ、大変なお話が有るのですよ。ソレ私しの所へ来て、机の足から何か盗み出した行った、その紳士が分かりましたよ。今日逢ったから、貴方に教わった通りその後を尾けて、行く先を突留めました。」
小「ヤヤそれは有難い。」
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