巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume10

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.7.12

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              十

 春人は殆ど腹立しそうにその眼を光らせたが、何を思ったのか、忽(たちま)ち色を和らげて、
 「イヤ、この薔薇の花を揉み砕くか、それともお前に与えて仕舞えば好いだろう。」
 優しく言われて、イリーンも少し心解け。
 「ハイ、そう成されば言い分も有りませんが、どっちかと言えば何故貴方がこの花を大事にして、一日肌に着けて居たのですか。それを聞かせて貰う方が--。」
と言いながら春人を見詰めると、

 「イヤ、聞きたいの、知りたいのと言って、根問いをするが女の過ちというものだ。何事も問わず何事も知らずに居るほど世に幸いなことは無い。」
と春人は体好く言い紛らせて笑うので、イリーンも笑うには笑ったが、まだ花を手に持って眺めたまま、
 「これ、和女(そなた)は何故物を言わぬ。誰の手からこの方に渡された。」
と生きた人に問う様に言い掛けると、春人は、
 「詰まらない事を言う。」
と言い、声高に笑い消そうとする。

 「それではもう聞かなくても好いです。その代わり今夜芝居に連れて行って下さいな。そうすればこの花の事も忘れて仕舞います。今度のクイン劇場は大層面白いと言いますから。」
と自分から先ず折れて出ると、春人は再び眉を顰(ひそ)め、
 「何だ、クイン劇場、イヤ今夜は外に約束が有って、もうその方へ出かけなければならない時刻だ。」

 「オヤ、今迄一度でも、私の願いを否と仰った事は無いのに。」
 「イヤ、外に約束が有るのだものーー。ドレ、そういう中にも遅くなる。」
と言って無情に跳ね付け、早くも立ち上がろうとする様子なので、イリーンは重ね重ね気分を害し、殆ど悲しそうな声で、
 「オヤ、久しぶりにここへお帰り成って、未だ一時間と経たないのに、又お出かけに成るのですか。」

 「ソレ、そう言われるのが何より辛いよ。ここが自分の内であってみれば、出るも入るも一切自由で無ければ成らない。自由で無ければ内の様な気はしない。」
 イリーンは早や涙となり、
 「何で自由で無い事が有りましょう。何時出ようと帰ろうと、勿論貴方の御自由ですが。」

 「それでは何故涙など流すのだ。」
 「イエ、約束が有るなら有るように、今夜誰と約束で何処に行くからと、それだけ仰ってくだされば、どれ程私の気が休まるか知れません。」
 「ヘン、学校へ行く子供じゃ有るまいし、何時から何時まで誰と何処に居るなどと、一々その様な事を聞かれてたまる物か。」

 「そう仰っては違いましょう。何で貴方が子供の様に私が聞きますものか。唯夫となり妻となれば、互いに何もかも打ち明けて、少しも隠す所は無いと、貴方から幾度も仰ったでは有りませんか。」
 春人は返事もせずに立ち上がり、衣嚢(かくし)の時計を出して眺め、
 「イヤ、思ったより遅くなった、内がこう面倒では、帰って来ても永く居る事が出来なくなるワ。」
 宛(あたか)も捨て台詞(ぜりふ)の様に言い、イリーンが引き止める間も無いうちに、早や戸外へ立ち去った。

 後にイリーンは唯呆れるばかりだったが、思えば夫の愛、早や既に衰えて来たのだろうか。どの様な約束があるにもせよ、今の振る舞いは妻を妻としての振る舞いでは無いと、恨みかつ悲しみ、眠ることも出来ずに一宵を明かしたが、翌日は春人も自分が邪険だったことを悔いたのか、昼過ぎに帰って来て、様々にイリーンの機嫌を取った末、

 「どうだ。今夜ならクイン劇場へ一緒に行こう。」
と言い出した。
 「エエ、もう行きたくは有りません。昨日は新聞に出ている評を読み、行って見たいと思いましたが、今日は何とも思いません。」
 「そうならば好いけれど。立腹して行かぬなどと言うのでは-ーー。」
 「イエ、貴方が立腹させる様な事さえ成さらなければ、私から決して腹など立てません。」
と答える言葉の中にも、まだ解けていない所がある。

 「ナニも己から、立腹させる様な振る舞いをした訳でもないのさ。併し劇場へ行かないとして、今日は一日用事も無いから、もう互いに仲良くしよう。」
と言いつつ、春人は打ち寛(くつろ)いだ様子で上着を脱ぎ、その衣嚢(かくし)から煙草入れを取り出そうとしたが、煙草入れと共に水色の手袋が出て、手袋の間から貴夫人が夜会の席で共に踊るべき紳士の名前を書留る象牙製の小箋が落ちた。春人はハッと思ってその小箋を拾い納めようとすると、イリーンの手は彼より早く先ず小箋を取り上げたのは、心に疑う所あるが為だからだ。

 「コレ、その様なものをお前が読んでも仕方がない。」
と言って取り上げようとするうちに、イリーンは早や小箋の面にある其の文字を読み尽くし、顔を赤めて眦(まなじり)を吊り上た。その文字とは外ならず、外の紳士の名前の間に、子爵西富春人の名前が幾度となく書き入れてある。小箋の持ち主である貴婦人の名は、是蘭(ゼランド)伯爵の令嬢李羅子とあり、李羅子の名は今見るのが初めてではない。昨年パリの旅館で新聞にこの名があった。春人が之を見て急にパリより立ち去った事は、今猶(なお)イリーンの忘れていない所だ。イリーンは悔しそうに小箋を見詰めたまま、

 「アア分かりました。昨夜私と芝居へ行く事が出来ないと仰ったのは、この李羅子さんと夜会に臨む約束が有ったからですネ」
と問詰める。その声さえも早や震えるかと思われる。



※注 根問い;つき詰めて根本まで問いただすこと


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