巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume23

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.7.25

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             二十三

 漸(ようや)く李羅嬢に婚礼を承知させ、春人(はるんど)は嬉しくてしかたがなかったが、忘れようと思うほど益々イリーンの事を思い出し、李羅子の代わりにもしイリーンをこの様に妻として得たならば、どれほどか幸いだったことだろうなどと思い、我知らず、深い嘆息を発した。李羅子は耳早く聞きとがめて、
 「オヤ、貴方は何が気に掛かって、その様に嘆息など発します。」
 春人はハッと驚いて我に帰ったが、既に遅し、

 「イヤ何、嘆息と言う訳では有りません。」
 李羅子は少し不興げに、
 「早私にお隠しなさるのですか。」
と問う。春人は益々窮し、漸(ようや)くしかるべき言い訳を考え付き、
 「実は亡き母がこの世に居て、私がこれほどまで立派な妻を持つと知ったならば、どれ程か喜ぶ事だろうと、こう思ってツイ溜め息が出たのです。」

と言い訳したけれど、まだ何となくすっきりしないところがある様に思い、更にその機嫌をとろうとして、李羅子の優しい手を取り上げて、
 「李羅子さん、こう夫婦の約束が定まれば、何事が有ろうともこの約束が破れないように、接吻を以って固めなければ成りません。」
と言いながらせり寄ろうとすると、李羅子はその顔を赤くし、微かに唇を震わせてその身を退き、

 「イエ、それは出来ません。私は父より外の人と接吻した事は有りません。」
 アア、この返事、イリーンとは何という相違だろう。
 「イヤ、父上より外の人と接吻してはそれこそ大変ですが、それでも夫婦の約束が定まれば接吻せしなければ成りません。それが済まなければ、何だか許婚に成った様な気がしません。」
と言い、再び身をせり寄するに、李羅子は殆ど女皇がその臣下を制する様な、非常に気高い身振りで春人を制し、

 「私の言った事を忘れましたか。私は思う儘(まま)を飾らずに打明けて貴方を敬うけれど、未だ真の愛情は出ないと言いました。接吻は真の愛情の起こる時までお預かりに致します。」
 是が夫婦の間だろうか。こう言われてはその言葉に従わなければ成らないかと思えば、春人は再び溜め息の洩れるのを制する事ができず、唯わずかに、
 「では成るだけ早くその時が来るように、勉める外は有りません。」
と言って終わった。

 この年の八月に及び、愈々(いよいよ)是蘭(ゼランド)伯爵邸において、婚礼を行うことと為ったが、伯爵は一世の晴れとし、皇族をまでその席に招待する運びを附け、古来その例も無いほど、非常に盛大な用意を調えた。それで子爵西富春人と、是蘭(ゼランド)伯爵令嬢李羅子との婚礼は至る所の評判と為り、いずれの新聞も之に関する記事を以って毎日その幾段を埋め、李羅子の許には所々方々より祝意を表して、様々の贈り物を寄せて来る者引きも切らない。

 しかしここに一つ新聞紙も探り得ない一事件があった。それは愈々(いよいよ)今日が婚礼と言うその朝に至り、郵便で送って来た数多くの進物のうち、一つ黒い紙で封じた小包があった。黒い包装は死人の知らせにだけ用いる習慣であるのに、婚礼の日に之を受けるは誠に忌まわしく思われて、深く李羅子の気に触(かか)ったので、中に何物を封じてあるのか、又何人が寄こしたのかと、李羅子は殊更(ことさら)に封を切って検(あらた)めると、送り主の名は記して無し。

 品は非常に小さい短剣にして、その刃は銀で製し、その柄には真珠を嵌め、留め針として襟などに指洲事が出来るように作ったものだった。成るほど新奇な形ではあるが、名を聞くのさえも恐ろしい殺人剣、何の意で送ってきたのだろう。更に好く見れとその剣に細かな文字があって、
 「血を見る敵」
と刻み付けてあった。

 李羅子はこの文字を読んで、身のすくむ程ゾッとした。
 「血を見る敵」
 世にこれほどの恐ろしい言葉が又と有るだろうか。どちらにしろ我が身を怨み憎む人の仕業に相違ない。我が身は絶えて人に憎まれる様な事をした覚えは無いのに、何の恨み、何の遺恨、不思議で仕方が無かったが、兎に角この婚礼に付いては、目に見えない敵があるにちがいない。用心しなくてはならないと、殆ど安き心も無く、誰にも知らさず、この短剣を深く化粧箱の底に納め隠した。

 やがて定めの時間になったので、春人と李羅嬢とはその式場に定めた教会に行った。神卓の前に立ったが、花嫁花婿両人とも、他人が想像するほど嬉しそうな様子は見えない。特に春人の顔は色さえ青ざめて、ひどく気に掛かる事がある様で、長老が夫婦の誓いを読み聞かせる間際にも、不安心そうに後ろを向き、落ち着かない風に見回した。

 彼の心には、今も猶イリーンの、「この言葉をお忘れなさるな。」
の一言が深く印して、忘れようにも忘れる事が出来ない。この盛んな式に臨んでは、イリーンと行った偽りの婚礼が目先に浮かび、もしやこの様な中にもイリーンが復讐のため、群集の中に現れて来はしないか、もしや花嫁の手を引いて帰る途中に、彼が待ち伏せて居るのではないか、など我より招く心配が自ずと顔に現われるばかり。

 もし春人が良くイリーンの人柄を考え見、彼が真実に生まれながらの貴夫人にして、世の貴夫人も猶及ばないほど美しい心根であるのを思えば、彼が恥をも忘れて人ごみの中に現れ、俗界の男女が怨み合う様な、端下ない復讐を企むはずはない事は明らかなのに、それをさえ思う事が出来ないのは、唯犯したその罪が非常に深いのを感じるが為である。

 愈々(いよいよ)婚礼の式が終わるや、春人は逃げる様に新婦と共に馬車に乗り、その日直ちに蜜月の旅に上ったが、この夜になって李羅子が、初めてかの物凄き贈り物の事を打明け、
 「この度の婚礼には、必ず目に見えない敵がありますよ。」
と言うのに、春人は顔色が土の様に変ずる迄に驚いたけれど、最早こうなったら仕方が無い。何事が有っても我が力を以って充分に新婦を愛し、新婦を保護する外は無いと決心し、然るべく言い消して李羅子を慰めた。


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