musume29
嬢一代 (明文館書店刊より)(転載禁止)
バアサ・エム・クレイ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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二十九
アア、五田公爵は無言のままで何事を考えているのだろう。イリーンの話た秘密を聞き、イリーンの身が我が思っていた程清く無いのを見て、公爵の妻にする事は難しいと思い、しかるべき断りの言葉を考えているのではないか。何しろ心の中は一方ならない苦しみと見え、殆どその顔を上げることも出来ないでいる。
貴族の家には、貴族だけの格式がある。一家の格式を破るよりは、寧ろ家格を守って死のうというもの。真の貴族が幼い頃からその心の奥底に蓄える心である。今迄何代何十代の間、五田公爵夫人と言われる者、幾人、幾十人の上になるが、一人としてその素性の雪よりも清くない者は無く、婚礼前の身の上に他人に聞かされない様な秘密の有る者はいない。このような清浄な家柄を我が一代に至って傷付け、唯我が愛の為、快楽のため、秘密の履歴ある女を迎えて好いだろうか。
これこそ公爵が決め兼ねた所である。通常の心から考えて見れば、公爵がこの場合に、この様に自ら苦しんで、決め兼ねることはほとんど怪しむべき程であるが、この様に厳格な気質で、一点の暗いことにも加担出来ない人だからこそ、今迄公爵家の家名を何の穢れも無く支えて来ることが出来たのだ。
イリーンは最早この無言の公爵が口を開くのを待って居る事は出来ない。強いて公爵夫人になることを願う様に思われては、清き我が身の品位にも障ると思うので、公爵の無言なのはその愛の醒めたものと見、我が身を公爵夫人とするには叶わない女と見たものとし、未練も無くその所を立ち去ろうとした。嗚呼、イリーンは唯我が身の品位を守ろうとする為、生涯に又と無いこの出世の機を取り逃がそうとするか。
何故唯一語の優しい言葉を発し、公爵の心を動かさそうとしないのか。唯一語の言葉で公爵は一切の思案を捨て、イリーンの手の内に転び入るはずなのに、アア、イリーンは浮かぶ瀬を取り逃がそうとしている。
イリーンが今や立ち上がろうとする丁度その時、公爵は顔を上げ、山嶽(さんがく)が前に倒れて来ても驚かないと言う程の決然とした口調で、
「イヤ、嬢よ、貴女の話を聞き、篤(とく)《じっくり》と考えて見ましたが、貴女の身に少しも穢(けが)れは有りません。これ程の辱めに逢ったからこそ、益々貴女の身の清いことが分かります。この後、どれ程の辱めに逢うとしても、決してその辱めに潰されないという事がこの履歴で分ります。実に生まれ立ての小児よりもっと心が清いというのは貴女のことです。」
と真心込めて言い切ったので、イリーンは四面皆敵の中に、唯一人自分を知る救主に逢った様に、限り無い嬉しさに、我知らず公爵の手を取って、
「本当にそこまで仰って下さるのは、唯貴方ばかりです。」
と言うと、公爵はこの一語に魂消え、気も尽きて、唯イリーンを愛する心の外に何の思いも、何の意見も無かった。
「イヤ、嬢よ。貴女は今迄保護して呉れる人が無いために、悪魔に誘われ、社会の道を踏み迷ったと言うものです。是からは私の手に縋(すが)り、本当の道まで踏み返らなければなりません。私の愛、私の名前は充分貴女を保護します。今だ五田公爵夫人と言われる者で、他人から指一つ指された者は有りません。五田公爵夫人と言えば、人はその履歴も何も聞かず、五田公爵夫人と為る程だから必ず清浄無垢だろうと、こうく思います。公爵夫人の地位は一切の謗りや、一切の穢れより遥かに上に在るのです。
今までの貴女の身の上は、誰に聞かせても少しも恥じる事は有りませんが、それにしても生涯私の口から外へは出ません。もう全く消えて仕舞った秘密です。貴女も決して私へ打明けたのを後悔する様な事はこの後にも有りません。サア、是で何もかも決まりました。貴女の返事は如何です。私の妻となって呉れましょうか。」
イリーンは再び公爵の手を取りて、
「ハイ、貴女の妻と為り、私の力の有らん限りは貴方の為に尽くします。」
是で夫婦の約束は全く定ったので、公爵は限り無く喜ぶうちに、まだ一つ気に掛かる所がある様に、
「イヤ、是きりでもうこの秘密は、貴女も私も全く忘れて仕舞はなければ成りませんが、その前に唯一つ問はなければならない事が有ります。貴女をそこまで欺いたその悪人の名は何と言います。」
イリーンは顔の色を青くしたが、
「イエ、そればかりは言う事が出来ません。生涯我が口から出さない事に、我が心に誓いましたから。」
「では何と願っても。」
「ハイ、その人の名を我が口に唱えるのは、我が身を汚すようなもので、何よりも汚らわしいと思いますから、決してその名前は言いません。」
明らかに断られて、公爵は残念でならない様子なので、
「名前を聞いて何となされます。」
公爵は殆(ほとん)ど血相を変え、
「貴女の敵はもう私の敵も同じ事です。その者を探し出して、充分な罰を与え、この世に居る事の出来ない様にして遣りたいと思います。」
「そのお心は有り難う存じますが、心の誓いを破る事は出来ません。他日仇を返す時が有れば、私が返します。」
と言って一歩も動く気配が無いので、公爵はイリーンの心が非常に堅いのに感心し、唯顔が美しく心が清いだけでなく、古の列女にも恥ずかしくない、一個の決心ある女と見、益々感心するばかりで、再びその名を聞かなかった。
この夜イリーンは神に祈り、我が復讐の近くなった事を謝したと言う。
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