巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume33

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.8.4

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               三十三

 女と女の間には必ず相凌(しの)ごうとする心がある。日頃はこの心それほど強いとも思われないが、折に触れては怪しいほど強くなる。唯負けたく無い、凌(しの)がれたくないとの一心から、意地と為り、悲しい時にも冷然として笑い、燃える程悔しい場合にもズッと澄まして控える事があるとかや。イリーンが唯李羅子の名を聞いただけで、今迄鎮まることが出来なかった自分の心を忽ち鎮め、少しも今迄に李羅子の名を聞いた事が無い様に微笑みながら挨拶し、続いて非常に冷ややかに、非常に平気に春人(ハルンド)の顔を見たのも、即ちこの心の所為(しわざ)に違いない。

 李羅子は勿論、イリーンを知る筈はなく、自分がイリーンに何とか思われて居るだろうなどとは猶更思う理由が無いので、成るほど噂に優る美しい夫人とだけ思い、良い友達を得た様な気持ちで、益々親しく交ろうと、
 「この様な方と睦まじくするナと仰っても、睦まじくしない事は出来ません。」
と笑みを返したが、春人は心に深い傷があるので、李羅子の様に自然に打ち解けた様子を粧(よそお)う事は出来なかった。

 初めて公爵夫人を見たその時に、早くもイリーンであると知り、我が踏む伝居の動くかと思うほど驚いたが、又見れば6年前に分かれたイリーンよりも、一層立ち優った所がある。その時は美しい娘と言うだけだったが、今は優に交際社会の上に立つべき品も、位も備わっている真の美人である。泣いて我が前から退いたイリーンが、世に知己も近付きも無い身を以って、如何して公爵夫人とまで成ることが出来たかと思うと、唯怪しむ外は無く、或いはイリーンと同じ顔、同じ姿の別人ではないかと迄に不思議に思い、瞬きもする事が出来ずにその顔を眺めて居ると、公爵夫人は何の恨みも、何の厭味も現さず、唯初対面の珍客を扱うのに、最も当然な打ち解けぶりで、天然自然の笑みを浮かべて李羅子に挨拶するので、春人は愈々以って納得が行かない。

 かって我が口から李羅子の名前を聞きたばかりか、李羅子を恨んで、
 「血を見る敵」
の短剣まで送ったイリーンには、この真似が出来る筈は無いと思ううち、公爵夫人の眼は我が方に転じて来た。剣の刃に置く霜よりも、猶冷ややかに輝いている今の公爵夫人、全く昔のイリーンで有ることをを知ったが、挨拶しようとする我が言葉は、腹の中で凍ったか、言おうとするが、口には出て来ない。交際上手と噂される日頃の技量に似つかわしくなく、非常に覚束なく聞き取れない調子で、何事をか呟くいて間に合わせ、更に心を励ましてはっきりと言い補おうとしたけれども、その時は公爵夫人、早我に顔背け、李羅子の父是蘭(ゼランド)伯爵と親しそうに語らって居たので、如何しようにも仕方がなかった。

 この時初めて春人は交際場裡に引けを取った事を思い、さてはイリーン、私を待ち構えていて、わざと私を冷淡に取り扱い、自分が私より遥かに上であることを示そうとしたのか。彼女の心は早や私を何とも思わず、私を見ず知らずの他人の様に扱うに至ったのかと、限り無い不快を感じたが、後の祭りで如何しようもなかった。

 イリーンも一旦は思う通りに心を落ち着け、思う通りに春人を扱ったけれど、心の中の苦しさは並大抵ではない。もし春人と長く話でもしなければ成らない様な場合が来たら、殆ど耐えることは出来ないだろうと気遣われるので、なるべく彼とは接近しないのに越した事は無いと思ううち、やがて晩餐の刻と成り、彼と食堂に落ち合ったけれど、幸い余程離れたるところに座したので、彼は彼、我は我、互いに言葉を交えなければならない事も無く、是だけは先ず安心して自分は公爵夫人というその位置に恥じないように談話の中心となって、充分に勉めると、来客は何れも夫人の才に感じ、五十年来交際社会に、この様な夫人が出て来た事は無かったとまで言い、打ちくつろいで賑やかになったが、春人のみは気に掛かる事が多いためか、それ程面白そうには見えず、唯人に悟られないようにしようと、勉めて語り、勉めて笑いなどしたが、その語その声真実の心の底から発するのでは無い事は、イリーンだけには良く分った。

 食事も無事に終り、夫人連れは先ずここを退くことと為り、イリーンはやむなく春人の傍を通ったが、その時偶然にも身に付けていた花束の中の一輪、春人の前に落ちたのを、春人は今やイリーンが我に対して何とも感じないのかどうかを試して見る時と思った様に、その花を拾い上げて、イリーンに差し出すと、イリーンは僅かに見向き、
 「毀れかけた花束ですから、一輪二輪散っても構いません。」
とこの上なく余所余所しく言い、手にだも触れず、宛(あたか)も猛(たけ)き虎が、ひれ伏す羊をを横目に見て通って行く様に、悠然と通り過ぎた。

 やがて次の間に入り、椅子に身を下ろす間も無く、李羅子も来た。是蘭(ぜらんど)伯も来た。続いて春人もここに来たが、イリーンはなるべく是蘭伯にのみ話し、時々は又李羅子に振り向いたが、春人には口を開く場合も与えない。
 是蘭伯は深くイリーンの才と容貌とに感じ、
 「イヤ、五田公爵が生涯の第一の手柄は、実に二度目の婚礼です。到底人間の力で見い出す事が出来ないほどの夫人を見出しましたから。」

などと言えど、李羅子は流石に女だけに、公爵夫人が何とやら我が夫に余所余所しくしているのを疑い、何れの席っでも人に疎んぜられた事が無い春人なのに、何故公爵夫人にだけは気に入られないのだろう。今少し二人を親しくさせなければ、交わりの興味も薄いなどと思い、二人を暫らくの間ここに残して置き、隔ての氷を解かしてしまおうと、それとは無く父伯爵に向かい、この度公爵がローマから取り寄せた絵画など見る為に、美術室へ行こうと言うので、イリーンは
 「私がご案内します。」
と言って立ちかかると、李羅子は是を留め、

 「イエ、貴女は春人に、貴婦人の前に出て話する心得など、教えてやって下さいませ。」
と笑いながら、早や伯爵と共に立ち去った。イリーンはこの席の主人たる身として、客の請いに背いて続いて立つのも
はしたないとは思ったが、ここに春人と共に残されるのは、何より辛いことなので、機を見て立とうと思う間もなく、早や我が耳の後ろの方に、異様なる囁き声あり。

 「イリーン、イリーン、イヤ今は五田公爵夫人、子爵西富春人に一言の言い聞かせる事は有りませんか。」
と言う。アア、春人はその汚らわしき口を開いて来て、再びイリーンに物言おうとするか。


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