musume36
嬢一代 (明文館書店刊より)(転載禁止)
バアサ・エム・クレイ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2013.8.7
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(画面設定が1024×768の時、拡大率125%が見やすい)
三十六
春人(ハルンド)はまだ何とかして夫人の恨みを解こうとして、
「しかし夫人、もう過ぎ去った事はお互いに忘れて仕舞い、新たに打ち解けて交わるのが幸では有りませんか。貴女がそうして下されば、私は総て貴方の言葉に従い、充分貴女のの満足するように致しますが。」
イリーンは相も変わらない決心の様子で、
「復讐を果す外に満足の道は有りません。それを果さずに如何(どう)して過ぎ去った事が忘れられましょう。」
「私がどれ程願っても」
「ハイ、何とお願い成(なすっ)てもいけません。昔貴方と分れる時に、此の後貴方が私の前に泣き伏して、如何か助けてくれと命懸けで願う事があっても、決して私は助けませんから。其の時に思いお知りなさいト、私は言い渡して置きました。今にその時が参りましょう。」
まさかにこの女の前に泣き伏して、助けを請うような時が来るだろうとは思はないが、ここまで厳しく言い張られるのは男ながらも何と無く恐ろしかったので、今一度声を切にし、
「昔愛しもし、愛されもした仲で、そうまで憎まずとも好いでしょう。貴女は昔の愛が少しも残って居ませんか。寝覚めが悪くは有りませんか。」
イリーンは殆ど傲然と身を構え、
「何で昔の愛が残っていましょう。恨みの外は何にも残って居りません。思い出すのさえ胸が悪い程ですもの。」
「でも少しの未練は」
「イエ、少しも」
何と言っても打ち解ける見込みが無いので、春人は暫(しば)し考え込みんだ末、
「それにしても貴女が上辺に出して、私へ余所余所(よそよそ)しくするのは決して得策では有りません。上辺は何処までも通例の友達の様にしなければ、第一公爵が怪しみます。それに貴女の父もこの頃はこの屋敷に来ていますから、貴女が取り分け私へ辛く当たる様子が見えれば、必ずそれと悟ります。」
「その様な事は貴方から教わるには及びません。勿論復讐は私一人の復讐で、父にも夫にも知らせては成りませんから、上辺だけは誰にも怪しまれない様、外の方と一様に貴方へ付き合います。心は何処までも血を見る敵ですから、そのお積りで。」
血を見る敵、この一語に春人は又驚き、
「アアそれで思い出しましたが、私が婚礼の時、李羅子へ向けて、血を見る敵と言う、短剣型の留め針を贈ったのは貴女でしょう。」
と問掛けるに、イリーンは少しも騒がず、
「今更お問いなさらずとも、私と言うことは其の時から分って居ましょう。」
「分っていますが、貴方にも似合わない邪険《無慈悲》な振る舞いではありませんか。私を恨むのは仕方がないとして、妻の李羅子に何の咎が有りますか。」
「そう言う貴方は、咎の無い者を害した覚えは有りませんか。貴方を敵と狙いながら、貴方の妻と真実に打ち解けると言うことは私に出来ません。貴方の身に痛みを及ぼす事が出来ると見れば、誰を害するか知れませんから、そのお積りでおいでなさい。」
春人は又も初めの不安心に立ち返り、
「貴女は実に私を脅かします。昔ブランリーの川沿で逢った時は、蟲も殺さない憐れみ深い令嬢でありましたが。」
「ハイ、其の頃は悪人に騙(だま)された事が無く、心に恨みと言うことを知りませんから、其の後貴方に恨みと言う事を教えられた今の私とは大変な相違です。」
春人は熱心に、
「イエ、その様な事は有りません。貴女の天性が少しの間にそうまで違うとは思はれません。貴女は唯私を脅す為に、その様な事を仰るのです。私を恨むが為に、罪も無い妻にまで、その恨みを及ぼす様な、そんな邪慳な事を為さる貴方では決して有りません。」
と打ち叫ぶ。
その心は唯我が妻を庇はんとする一心と見えたれば、イリーンは女心に、又今更の如く悔しさを催し来た。
「何とでもお思いなさい。分る時が来れば分ります。」
と言い切って、最早座にさえ耐えられないか、動く我が身の顔色を隠す事が事ができないからか、春人が引き留める暇もなく、立ち上がって、この室から歩み去った。
歩み去るその姿の爽やかなことは、唯交際社会を足下に平伏させ、到る所に尊敬される夫人でなければ、真似も出来ないだろうと思われるばかりなので、春人は恍惚として見惚れる程に、心に今まで覚えも無い異様な後悔の念を催し、
「アア、李羅子に心を移した日は、我が生涯の悪日であった。死ぬまでこの苦しみは免れない。」
と呟(つぶや)いた。
何時までここに居ても仕方が無いので、春人はその後を追って行くと、早やイリーンは李羅子、是蘭(ゼランド)伯などと共に絵画室にいた。李羅子と立ち並ぶイリーンの姿を見れば、何処として李羅子に優らない所は無く、人間より一段上に位する美人かと思われ、何とやら近付き難い所があるので、春人は正面よりイリーンに向う事ができず、僅(わず)かに我が妻李羅子に向かい、
「美しい絵が沢山有るだろう。」
と言うと、李羅子は笑いながら、
「美しい物といえば、公爵夫人の姿ほど美しいものは有りません。貴方は夫人と大層話が合ったと見えますね。あんまり長いから私などは、もう絵画を見て仕舞いました。」
と言う。
その言葉は嫉妬にあらず、意地悪にあらず、唯心に浮かぶ儘(まま)を罪も無く言い表すものだったが、春人は返事に困り、
「和女(そなた)でも夫人と少し話をすれば、時の移るのを忘れるよ。」
と言い、密かに夫人の様子を見ると、夫人は何の秘密も知らないように、その顔は晴れ渡り、その態度は侵し難いほど静かだった。
之より幾時の後、一同は客室に落ち合い、歌うもあり、音楽台に上るも有り、宴もたけなわになったが、此の時春人は妻李羅子の請いに従い、イリーンに向い、何か歌って聞かせて下さいと乞うと、イリーンは辞退もせず、
「李羅子さんのお願いならば。」
と言い、早速立って、音楽台に上り、優(ゆた)かな音調で歌い出したのは、昔春人と共に在った頃、毎日のように歌ったその歌だった。
外の客は唯声の美しさに感じ入るばかりだったが、一人春人はイリーンが何故この歌を歌うのかを知り、その心に最早我に対する一点の愛も未練も無く、この歌を唱っても、その声は少しも曇らない事を示す為と悟り、益々不快を催した。
次(三十七)へ
a:836 t:1 y:0