巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume37

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.8.8

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               三十七

 イリーンはこの様にして、この様に春人(ハルンド)を見下す事出来たので、心密かに喜んだけれど、これに引き代え春人は不快の思いに耐えられなかったが、だからと言って又イリーンの心を動かし、昔の恨みを忘れさせることは殆(ほとん)ど不可能なので、今は如何し様も無かった。

 彼女が我に余所余所しければ、我も又彼女に余所余所しくしよう。客と女主(あるじ)の間に於いて、角を立てる事は出来ないが、我打ち鬱(ふさ)いては彼女は益々勝ち誇る道理なので、我も唯彼女を度外に置き、彼女から何と仕向けられても、我は痛いとも痒いとも思わず、彼女を取るに足りない小児の如く見做して置けば、彼女も心に楽しさを得ることは出来ないだろうと、こう思い定めて、これからは二度とイリーンの機嫌は取らず、時々は言葉など交わす事は有るだろうが、それも唯一通りの挨拶にして、なるべく我が心の平気であることだけを示す事にすると、

イリーンは女心に早くもそれと悟り、春人を憎む心が、又一層強くなり、何とかして充分彼の心を苦しめ、我が復讐を仕果せる工夫は無いかと、寝ても醒めても、そればかりを考える程となったが、心無い人の心を苦しめるのは、目の無い人の目を潰そうとする様なもので、その工夫の浮かばないも仕方が無い。

 その中に早や一週間の余りを経て、客の逗留する期限も尽き、春人夫婦も他の客と共にサクソン宮より帰り去ったが、是から凡そ一月の後、朝廷で例年の大宴を催される事と為り、イリーンは公爵夫人としてその夫と共に、第一に参会を仰せ付けられたので、一画家の娘でありながらこれ程まで出世したかと、我ながら夢の様で、ここを晴れの舞台として着飾って、朝廷に出て行った。

 この時再び春人夫婦と同席したが、宴会の盛んなのに紛れ、互いに嫉(ねた)みを現し合う暇も無く済んだが、これ以後公爵夫人イリーンの名は、英国の上下に響き渡り、交際場裏第一の美人として女王の様に崇められ、イリーンの臨む宴会に招待される人は、身に余る誉れとし、争って出席し、イリーンが公爵と共に芝居見物に行くと言えば、前々から上流の新聞に披露されて、その夜は必ず木戸に大入りの札を掛け、遅れた人を謝絶する程の勢いと為った。

 ある夜の芝居見物に、イリーンは何げ無く場中を見回すうち、一方の桟敷に当たり、我が眼に何とやら物恐ろしく覚えている一人の顔を認めた。是は何者だろうと自ら疑うまでも無く、イリーンは直ちに思い出だした。是こそ、かって春人が偽りの婚礼を以って我身を欺いた時、春人を助けて、我が身に夫婦の誓いを言い渡した偽僧である。その名前が、馬淵春介と言うことはその後春人に問い、知っていたが、今も猶その怖はらしき顔とと共に我が心に鮮やかであった。

 その時の僧服を被った彼の姿と、今の紳士風にしている彼の姿と、一方ならない相違はあるが、その悪相は見違がえるはずは無い。イリーンは意外な所で廻り逢ったものだと、一時は我が顔色を制す事が出来ないほど驚いたが、彼も敵の片割れで、報復すべき恨みがある。今逢ったのは幸なりと、我が驚きの静まるのを待って、それとは無しに傍にいる夫に問うと、

 「オオ彼か、彼は先年是蘭(ゼランド)伯爵が春人に頼まれたから、何かに取り立てて遣って呉れと言い、私の所へ頼んで来たから、私が領地の租税局へ雇ってやり、一年八百ポンドほどの俸給を遣ってある。今も猶喜んでその役を勤めている様子だが、何でも春人の学校友達か何かで有ろう。」

 と公爵は答えた。さては我が身を欺いた褒美として春人が彼を是蘭(ゼランド)伯爵に頼み、伯より公爵に周旋して位置を得させたものに違いない。彼を相手として、恨みを報えるのは、身分として大人気無い仕方ではあるが、彼の様な悪人を許して置いては、この後に又如何の様な禍を人に加えるかも知れないので、充分に懲らしめてやらなければと、イリーンは早くも思い定め、

 「貴方にお願いが有りますが、訳を聞かずに叶えて下されましょうか。」
と囁くに、イリーンの言うところは細大と無く、言うが儘(まま)に聞き従う公爵なので、
 「何なりと」
と熱心に答えた。
 「貴方が彼にその位置を与えたならば、貴方の力で又その位置を取り上げる事も出来ましょう。」
 「出来るとも」
と公爵は言い掛けたが、夫人の身に似ない異様な言葉なので、忽ち一種の疑いが催し来て、

 「では何か、彼奴(きゃつ)がその昔和女(そなた)の身を」
と問わんとするのを、イリーンは笑顔で制し留め、
 「ナニそうでは無いのですよ。唯私の知っている或る人に、彼はかって害を加え、その人が彼を悪人として深く恨み、如何か罰して遣りたいと言ったことを、私が知っていますから、それでこの様に申すのです。」

と非常に軽く言い消したが、公爵は益々眉を顰(ひそ)め、
 「害とはどの様な害を加えた、それだけ聞かせては呉れまいか。」
 「他人の秘密を、私の口で言うことは出来ないでは有りませんか。」
 公爵はそんな奴だったのかという眼で、馬渕春介の顔を見詰めると、彼は偶然にもこちらを向き、恭(うやうや)しく公爵に黙礼したけれど、彼は勿論数年前に、自分が偽って婚礼させたその田舎娘が、この英国第一の貴夫人であるとは思いも寄らず、その婚礼の事すら既に忘れた程と見え、唯恭しい様子だけで、その外に何の色も何の気合も現さなかったので、公爵は全く我が妻に関した事ではないと納得し、少しの間でも、妻に根問した我が心を恥じた様に、

 「イヤ、彼奴(きゃつ)等が和女(そなた)に恨まれる値打ちは勿論無い。私は和女が不意に変な事を言ったから、ツイ気を回して済まなかった、尤も慈悲深い和女がそう言うからは、きっと彼は根性の良くない奴だろう。なるほど顔付きも何だか悪人じみて居る。彼のような奴に租税のことを扱わせるのは第一私が気に入らない。好し、誰が何と言おうとも早速その位置を取り上げる。」
と言い切った。

 その結果は是より数日の後、馬渕春介は単に、
 「今日限り解雇」
と言う味も素っ気も無い、言い渡し書を上役より受け取って、宛(あたか)も我が立って居る足跡(あそもと)が急に千尋の谷となり、我が身がこれに陥いろうとするような心地して、これはとばかりに驚いたが、早や後の祭りとなった。


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