巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.7.6

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            四

 この日はこれで分かれたが、これからイリーン嬢は片時も彼(か)の紳士、彼の子爵、西富春人を忘れることが出来ず、翌日も、もしやあの人に逢えるかも知れないと、川沿いの樹下に行くが、彼も嬢に逢うのを楽しみにしてか、嬢より先に来ていた。初めは慇懃な挨拶をしたが、何時しか打ち解けた話となり、四方八方(よもやま)の事を話したが、彼の言葉は一つとして嬢が耳に新しく無いものは無く、一として嬢が心に楽しく無いものは無い。

 彼の人、まだ年若い紳士なのに、どのようにしてこの様に様々な事を知り、四十を越している我が父も及ばないほど話に富めるのだろう。どうして彼の人の声はこの様に爽やかで、彼の人の容貌も振る舞いもこの様に男らしいのだろうなど、思えば思うに従って懐かしさが益々募り、翌翌日も行き、又その翌日も行ったが、彼もまた、嬢が彼に逢うのを喜ぶ様に、嬢に逢うのを喜び、時を違えず来て逢ったが、やがて一週間も過ぎた頃は、嬢の心にこの人に逢う外、何の楽しみも無くなり、今迄十有余年の間、この様な親密な友無くして、如何(どう)して長い日々が送られたのだろうと自ら怪しむ程となった。

 これぞ女の生涯に唯一度しか無い真成愛情が、嬢の心に兆したものであるが、嬢自らそれと知らず。唯今迄に同じ年頃の友という者が無かった為め、一途にただの親しい人だろうとばかり思っていた。
 或る日の事、春人は嬢と分かれようとするに臨み、非常にに心配そうな顔で、
 「明日は止むを得ない用事があり、都まで行って来るため、一日貴女に逢うことが出来ない。」
と告げられたことに、嬢は死に分かれでもする程の悲しみを催したが、思い直せば一日行き一日に帰る事なので、何の悲しむべき謂(いわ)れも無く、我が父なども年に幾度か都に行き、長い時は一ヶ月の余も逗留する事がある程なので、父の留守より耐え難い事は無いだろうと思い、
 「それならば明後日は。」
と問い返す。

 「明後日は必ずこの所に来ます。」
と言ったので、嬢は心軽くして分かれたが、唯、一日も恋人の身には百年である。嬢はその夜眠ったが、毎(いつ)もの様には眠られなかった。翌朝起き出ても何となく我が身に物足りない所がある様に思われ、味気が無くて仕方がなかった。
 食事を終わって居間に入り、書物など開き見たが、文字は少しも馴染まず、庭に出れば草木まで、日頃の愛らしい色が無い様に思われ、門に出ても、見る物は総て何年来日々見て来たママの姿、風情も無く、趣も無く、家は我が家に違い無いが、今日に限っては、荒れ果てた野原より猶(なお)寂しく、如何(どう)してこの様な所で一日過ごすことが出来るだろうと思うばかり。

 入って父の居間を伺うと、父は余念も無く何やら描きつつ有り。よく退屈もせずこの室に居られたものと、殆ど不審の思いをし、立て柱の時計を見ると、まだ朝の九時前である。しばらくはその針を眺めて居たけれど、唯一分動く間が待ち遠しく、今日という日は何時まで経っても暮れないほど引き延ばされているのではないかと思い、出たり入ったり、起きたり座ったりするうちに、漸(ようや)く毎日川沿いに出て行く刻限とは為ったが、彼の人が来ないならば、行っても何を眺め、何を聞かす。いっそ忙しい用事でも有れば少しは心も紛れようかと、下女の働く勝手に行くと、風情の無い事又一倍だった。

 皿小鉢は何の為に働きもせず棚の上に重なって居るのだろう。流し先の甕や、茶碗は如何して欠伸が出ないのだろう。見る物一つとして五月蝿く無いものは無く、また一として不快の種にならないものは無い。幾度か嘆息し幾度かうめき苦しんで、殆ど我が身を持て余し、こうも遣るせ無い浮世ならば、寧(むし)ろ死んで時の長いのを忘れたほうが余程好いとまで思ったが、そのうちに漸く大儀な一日も暮れて行った。

 明けてその翌日となれば昨日とは何という相違だ。今日は彼の人に逢う事が出来ると、気も自ずから勇み立って、待ち遠しいうちにも苦にはならず、見る物聞く物、悉(ことごと)く晴れ渡って、世界は笑顔が満ちるかと思われ、心の底から嬉しさが込み上げて来るのを感じた。

 この様にしているうちに、愈々(いよいよ)毎(いつ)もの刻限と為ったので、浮き浮きとして川辺に行くと、彼の人は未だ来て居なかった。何(ど)うした事かと心配して行きつ戻りつするうちに、嬉や春人の男らしい姿は堤の向こうに立ち現れ、嬢の姿を見るやいなや懐かしさに堪えずという様に、早足に駈けて来たので、嬢も我を忘れて走り寄り、抱き付いてホッと息吐(つ)き、

 「到頭帰って来て下さった。」
と言うと、春人も非常に満足した様子で、
 「少しも早く帰り度いと充分用事を急ぎましたが、それでも今迄掛かりました。貴女も待ち遠しいと思いましたか。」
と問う。
 「思いましたにも、昨日の様に待ち遠しかった事は生まれて初めてです。」
と言って一日の有り様を残らず語ると、春人は聞き終わって、

 「私の方もその通りで、少しも用事が手に就きませんでした。」
と言い、更に
 「如何(どう)いうもので、互いに是ほど待ち遠しく思うのでしょう。」
と問うた。嬢は考えるまでも無く、
 「それは二人が真の友達に為った為です。」
 「エ、真の友達同士ではこれ程待ち遠しくは有りません。私と貴方は友達よりも兄妹よりも、猶(なお)深く猶親しい間柄になって居るのです。ハイ、知らず知らずに心がこれ程親密になったのです。」

 嬢は春人の言う所は皆誠なりと思うのが、充分その意を味わいもせず、
 「そうでしょうか。」
 「そうでしょうか。」とは、貴女はそうは思いませんか。友達とは幾人も有る者、分かれるも有り、離れるも有り、その度にこれ程待ち遠しくてはとても友達を拵(こしら)えられません。友達の旅する度に病気に成ります。」
 「それはそうです。」
 「そうでしょう。」
 「ハイ」
 「貴女はこの様に待ち遠しければ、いっそ死んでしまおうかと思ったと、今仰(おっしゃっ)たではありませんか。」

 「本当にそう思いましたわ。」
 「一日でさえそうでしょう。此の後もし幾月も別れなければ成らないように成れば、貴女は如何して暮らします?」
  一日さえあれ程なのに、幾月も別れるとは実に心に耐えることが出来ない事なので、嬢は殆ど色を失い、暫(しばら)く春人の顔を見詰めて、
 「その様な事は有りません。幾月も別れるなどと。」
 「イヤ、無いとは言はれません。貴女も最(も)う年頃と有って見れば、遠からず縁付かねばなりません。私の方も既に家督を相続した身の上え、何時までも独身では居られません。親類や世間に免じて妻を迎える事に終には成りましょうが、そうなれば否応なく、分かれなければ成らないでは有りませんか。一月や二月で無く、何年、イヤ生涯別れるかも知れないという者でしょう。」

 生涯別れるの一語を聞き、嬢は只悲しくなり返事もすることが出来ず泣き出すと、春人はその背を撫で、
 「イヤ、そう考えると貴女より私が猶(なお)辛い。私の心では、到底貴女と分かれることは出来ません。」
 嬢は涙のうちから、
 「私しも、私しも」
 「それでは生涯、決して分かれるには及ばぬ様に、二人で夫婦になろうでは有りませんか。貴女と私しの情愛は最(も)う友達と言うのではなく、真実に夫婦の愛情です。いや夫婦の仲にもこれ程の愛情は有りません。夫婦に成って生涯を一緒に暮らすより外には、分かれない工夫は有りませんもの。如何です、私と夫婦に成りますか。」

 「ハイ、成ります。」
成りますの唯一語は、嬢の生涯の宣告である。



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