巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume42

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.8.13

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              四十二

 木の間に見える人影は、全くイリーンに相違ない。春人(ハルンド)の居るところから二、三十間《36m~54m》も離れているが、春人はもう疑わない。それにしてもイリーンは何の為この様な所に来て、唯独り何を為そうとするのだろう。察するに彼女は公爵夫人として何不足ない身分ではあるが、心の裏に人の知らない悲しみがあり、家に在っては落々と泣くにも泣かれず、何人も見ない所で、自ら我が愚痴を語り、独り満足すほど泣き尽くして又その心を晴らそうとの為でもあろうか。

 彼女は我と住んでいた頃も、心に染まない事あると、独り庭に出て木の間を徘徊(さまよ)って自らその身を慰めていた。アア公爵夫人と敬われる身の上も、人に言われない苦労があるのだろうと、春人は初めて非常に深い憐れみの念を催し、是と言うのも結局は我が身の不実に基づいたことなのかも知れない。辺りに人が無いのは幸である。彼女に近付き充分に我が罪を詫びて、彼女の心を慰めよう。

 自分としても何時までも彼女に恨まれるのは本意では無い。彼女の心が打ち解けてその口から汝の罪を赦すとの一言を聞いたら、如何ほどか安心だろうと、今までに発した事の無い殊勝な心を発したのは、全くその身が浮世の望み皆足りて、唯イリーンに恨まれる事だけを、白玉の微瑕《わずかなきず》であると思うに至った為に違いない。

 このように考え出すと共に、自分も同じく木の間を潜(くぐ)り、イリーンの姿を追って行くと、彼女はこの辺の案内に好く慣れているものと見え、我が身よりも早くて、我が身が道の無い所を辿り、漸く彼女が此処に居たと思うところに至ると、彼女は早や幾十歩の先に在る。或る時はその姿が見え、或る時はその姿が隠れて、殆ど追い付くことが出来ないかと思われたが、彼女は何処までも歩み去る者では無い。

どこかにか必ずその身を停(とど)める時があるはずだと、木の根を踏み、木の枝を押し分けて進んで行くと、その間にも幾度か我が身に付けた猟銃が蔓葛などに絡まり、或いは枝葉などに遮(さえぎ)られ、強く引けば自ずから発射するかと思われる非常に危うい場合があったが、それをも恐れず、その度に立ち止まって静かにその絡む草木を外しなどして、益々遅れるばかりだったが、追うこと凡そ一時間ほどで、イリーンはその身の目指す所に着いたのか、苔蒸した平らな岩の上に腰を下ろした様子だった。

 見れば是、老樹が鬱蒼(うっそう)と立ち込めた只中に、テーブルを置いた様な小高い平地があった。樹が遮(さえぎ)って日も透さない。道が無いので、人が来るべき所では無い。真に独り泣き、独り物思うのに又と無い静かな場所なので、さてはイリーンが前からこの所を見い出して、その身の休息所にしているのに違いない。最早我が声も達するに違いないと思い、喘(あえ)ぎながら、

 「イリーン」
と打ち叫んだが、声は茂っている草木に吸い込まれて届かないのか、イリーンは唯静かにしていて、眼を空中に浮かばせ何事をか思案するばかり。春人は彼女が深い憂いに沈まないうちにと思って、急いでその傍に近寄りながら、再び声を放って、
 「公爵夫人」
と呼ぶと、今度は明らかに聞こえたと見え、直ぐに此方に振り向いたが、唯一目春人の姿を見ると同時に、イリーンは燃える怒りにその顔を白くしたけれど一言の返事も無い。

 春人は訴える調子で、
 「イヤ夫人、暫(しば)しの間お話が有りまして、その為わざわざ此処までついて来ました。」
と言いながら、その小高い所に飛び上がると、此の時忽ち春人の脇下で轟然一発、山も震うかと思われる恐ろしい響きがあった。響きと共に春人の脾腹に、耐えることが出来ないほどの非常に鋭い痛みを覚え、立つことも、動くことも出来ない。春人は地盤の少し傾斜(なだれ)た所に、平たく転がって苦痛に叫んだ。

 是何の為、何の苦痛、イリーンは口に賤しみの返事を含み、発せんとして未だ発せず、わずかに立って春人を追い退けようとする一転瞬の間にこの有様を見、そのまま其処(そこ)に立ちすくんだが、女の敏(はし)こい神経で、怪しむまでもなく、直ちにその仔細を知った。

 是春人の脇下で、彼の猟銃が発したのだ。先ほどから幾度か草木に絡まり、発せんとすることがあって、唯春人の注意で発しなかったが、夫人の居る所に飛び上がったその途端に、引金が強く落ち、春人の脾腹に射込んだのだ。痛みに悶え苦しむのも無理はない。

 身体中の最も急所、最も痛みの強い所に、しかも暑い頃なので、薄着の身と言い、是に幾百と数知れない豆粒の様な散弾を、直接打ち込んだものなので、この世に又とない苦しみを、彼の腸に突き入れたものと言わなければならない。
 彼は死んだか。死ぬ事は出来無い。だからといって身を動かす力も無く、唯骨が動き、肉が躍るのを見る。口には咽(むせ)ぶ様な呻(うめ)きを洩らしたが、息が迫って声を為さない。

 「痛い、痛い」
と言う様に空しく唇動かして、眼は尖り顔は蹙(しが)む。その煩悶の様子は言いようが無い。漸くにして唯一語、
 「タ、助け、助けて」
と洩らしたが、これを聞くイリーンは石よりも冷たく、木よりも静かに、姿勢を正してその傍に立っているばかり。


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