巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume45

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.8.16

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              四十五

 気紛れの一言を言い返したのは、イリーンの身に取って重い負債を払うことが出来た程の心地だが、春人はその言葉が如何(どれ)ほど我が身に苦いかを、味わう遑(いとま)がなかった。唯命だけ助かり度い一心なので、
 「コレ夫人、貴女は決してそれ程の心無しでは有りません。それ程無慈悲では有りません。年も若く器量も好し、世間からは敬われ、何一つ不足と言うことの無い身分です。この上慈悲深くさえしていれば貴女はこの世の女神です。社交界の女王です。これほど幸せな身分を以って、何で恐ろしい人殺しの罪を犯します。何で私を殺します。一時の恨みは恨みでも取り返しのつかない罪を犯し、必ず後に悔成されます。」

 「イイエ、少しも後悔しません。幾年以来充分考えた復讐ですから。」
 「でも私を殺し、その死骸をこの様な所に晒して置いて、貴女は安楽に眠られますか。」
 「ハイ、眠られます。今夜こそ初めて何の夢も見ず安々と眠ります。復讐をし果せて気に掛かることが有りませんから。」
 「それは嘘です。この後人が春人と言う名を話すたびに、貴女は必ず気が咎め、自分の罪に責められて落ち着いて居る事は出来ません。私を殺したという事を、自分の素振りに現して人に見抜かれます。夢にも私の死に様に襲われて、必ず夫公爵に悟られます。昔から寝言で罪の露見した罪人が、幾人もある事を貴女は未だ知りませんか。」

 「イイエ、私の胸には常に貴方の悪事を覚えていて、天の許した復讐を遂げたのだと自分で思い詰めますから、少しも襲われる事も無く寝言も言わず、素振りにも現しません。もし現れそうな時には、貴方の悪事を思い出せばそれで心が鎮(しず)まります。」
と一々平気で言い開くのは、復讐の一念が何よりも強い為に違がいない。
 春人は余りの事に、傷の苦痛さえ忘れたのか、今は罵(ののし)る調子で、

 「貴女は女では有りません。鬼女です。鬼女よりももっと恐ろしい心です。」
 「左様です。私がもし鬼女ならば、貴方が鬼女にしたのです。私の身体から女らしい優しい心を貴方が奪ってしまったのです。奪ってしまってその後で未だ女の心が残っていると思い、助けてくれなどと仰るのは自分のしぐさを忘れましたか。」

 何と言っても助けてくれる見込みが無いので、春人は今は悔しさに耐えられない様に、身をもがいて、
 「エエ、貴女は、私がこの儘(まま)おめおめ死んで仕舞うと思いますか。身動きの出来ない程の大怪我でも、何でこの儘死にましょう。貴女が立ち去ればその後で、一寸でも一分でも、少しづつ少しづつこの山から這い出します。何時間掛かるか幾日掛かるか、ついには人の居る所まで達して、貴女の罪を訴えます。」

 「それは御勝手です。」
 春人は唯必死の力で、這い寄ろうと身を起こしたけれど、先程からの出血で、その力既に尽き、且つは力を出すに連れ再び非常の痛みを催し、其の儘又も打ち倒れて、
 「エ、どうすれば助かるだろう。夫人、お慈悲です。お慈悲です。」
 「如何(どう)も斯(こ)うも有りません。唯神に今までの罪の滅びる様に、祈りながら諦めてお死になさい。貴方が生きて人間世界へ出る道は、一切塞がって仕舞いました。」

 春人は真に死に物狂い、暫(しばら)くは我が手の届く芝草を掻き毟(むし)るだけだったが、忽(たちま)ち、
 「己れ、悪女め」
と叫びながら、イリーンの衣の裾(すそ)を捕らえようとする。
 イリーンは彼がまだ捉(とら)えることが出来ないうちに、早くもその裾を引き、

 「ドレ、お分かれに致しましょう。併し明日又貴方の死に様を見に来ます。昔貴方が私を辱しめた時、婚礼の指環だと言い、私の指に挿して下さったアノ汚らわしい指環が、今もまだ父に預けて有りますから、明日はあの指輪を持って来て貴方の指に嵌めて上げます。父へは復讐の終わった時に受け取ると言って有りますから、アノ指環を貴方に返して仕舞い際すれば、それで私と貴方の間にはもう何の関係も無くなります。」

 斯(こ)う言いながら立ち去ろうとすると、春人は如何(どう)にも我が身が生きて人間に復(か)えるべき、その道が絶え果てるのを見て、
 「貴女は之を復讐と言いますけれど、人間世界に例の無い実に無慈悲な復讐です。復讐で無く犯罪です。他日必ず露見して貴女は公爵夫人の地位を失い、牢屋の人と為って世界中から賤しまれます。」

 「その様な事は少しも構いません。」
 「窮鳥懐に入ればと、昔から言って有るではありませんか。どれほどの野蛮人でも、怪我人を助けないと言う程の残酷な振る舞いは致しません。」
 「ところが私は野蛮人よりもっと酷い鬼女ですから、野蛮人もしないこともするのです。明朝は指輪を返しに来、その後も貴方の死に切れる迄は、毎日見届けに来ますから。」

 春人は絶望の声で、
 「その中に露見します。人を殺して露見しないと言うことは昔から有りません。」
 「イイエ、人殺しよりもっと酷い、貴方の私へ対する罪が、今迄露見せずに居ますから、私の復讐も露見しません。誰も私が貴方を恨むとは知りませんから。エ、そうでしょう。私と貴方の戦いは、誰も知らない秘密の中で、勝負が付いてしまうのです。」
 「ではもう何と言っても、どうしても、助けては呉れませんか。」
 「ハイ、助けては上げません。」

 断然たる言葉を残し、其の儘(まま)イリーンは立ち去ると、春人はまだイリーンを引き留めようと声を限りに叫び立てたが、イリーンの姿は既に無い。アア、イリーンは茲(ここ)に多年の復讐を得たとは言え、死に際の絶望に叫ぶ声は、早鐘の様にまだ耳に響いている。果たしてその心の安きを得ることが出来るだろうか。況(いわん)や春人がまだ死に切っては居ないのだ。彼を此処に残し置く危うさもイリーンは知らないのだろうか。


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