巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume50

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.8.21

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               五十

 死骸と思った春人が目を開き、虫の息でまだ我が事を罵(ののし)るのを見、イリーンは跳ね返る程驚いたが、彼の命の在るうちは我が復讐の念も未だ消えない。
 今彼に心の弱い様を見られて成るものかと、必死の想いで身を落ち着け、静かに彼の指環を春人の目の前に差し附けて、我が身にさえ怪しまれる程の穏やかな音調で、

 「モシ、西富子爵、貴方にまだ息が有るのは幸です。死に切らないうちに一言聞かせたい事が有ります。是れこの指輪を御覧なさい。貴方は見覚えが有りましょう。」
 春人は答えることは出来ない。又その指環を眺め詰める気力も無い。開いて居た目を眠る様に閉じたので、さては是だけで彼の命が尽きたのかと思ううち、彼再び眼を開き、その指環を眺める様子は、何(どう)やら其(そ)の覚え有との意を伝えている様に見えたので、イリーンは又穏かに言葉を継ぎ、

 「コレは貴方が神を欺き、私を欺いた偽りの指環です。是が私の手に在るうちは、私の恨みも消えず、貴方の罪も亡びません。今は貴方に返しますから、是を嵌めてお死になさい。是さえ返せば、私と貴方の間に少しも残る勘定は無く、互いに全くの綺麗な身となって仕舞います。」
と言ったが、彼にはそもそも手を出して受け取る力は無い。

 「オヤ、受け取る事が出来ませんか。貴方の手に触(さわ)るのさえ汚らわしいと思いますが、今は仕方が有りません。ドレ私が嵌めて上げましょう。是を嵌めて上げるのが、私の最後の親切だとお思いなさい。」
 言いながら血に塗れた春人の手を取り上げ、静かに其の指環を嵌めると、春人は少しの抵抗をも現さずに唯為す儘(まま)に任せるのは、何の力もその身に残っていない為に違いない。

 「是でもうこの世でもあの世でも、再び貴方と顔合わせる事はないでしょう。」
と言い、やおらその所を立ち去ろうとすると、春人の唇はしきりに物言う様に動くので、さては何事をか言いつつ有るのだろう、此の場合に臨んで彼が何を言っても、我が身にとって聞くのを恐れる事があるだろうかと、イリーンは耳をその口元に傾けると、果せるかな唯唇が動くだけではなく、蚊の泣くよりももっと微(かす)かな声で、

 「コレ、夫人、今と言う今は本当に思い知りました。もう貴女に助けて下さいと言っても無益、又言いも致しません。唯一つのお慈悲には、一思いに私を殺して下さい。私にはもう自分で死ぬ力も有りません。如何か、如何か殺して下さい。そこ等に石でも有りましょう。一打ちに私の頭を叩き砕けば、貴女の復讐は終わります。是だけが願いです。サア、サア」
と訴えるのは、生きて死ぬよりもっと辛い苦しみを、死んで逃れようとする為に違いない。

 今一思いに彼の頭を叩き割るのは、それ程難しい事では無い。石を拾って其の上に落とせば足りる。
 そうして彼の命を絶てば、イリーンの身は如何ほどか安心だろう。夫公爵が捜索して、たとえ春人の死骸を見出したとしても、死人に口無し、それがイリーンの仕業である事を訴えることは出来ない。

 彼さえ訴えなければ、誰か又公爵夫人イリーンが、人殺しの罪を犯したと疑うだろう。しかしながらイリーンは唯の一刻もこのような考えを心に浮かべず、唯断固として、
 「イイエ、私にその様な事は出来ません。」
と言い切った。
 こう言い切って彼の身に、虫の息でも通わせて置いた為に、我が身がどの様に為って行くかは、イリーンの少しも思わない所である。

 仮令(たと)え如何(どの)様な事があるにもせよ、自ら手を下して人を殺そうとの心は無い。春人が死ぬのは其の身の怪我、我が身の為には天の下した復讐であるだけ、我が身は唯彼を救わないというのに過ぎない。
 我より進んで石を投じ、彼の身を害することは、たとえその苦痛を救う為にもせよ、イリーンの心は之を許さない。

 春人は漸(ようや)く、イリーンの耳に聞こえる程に絶叫した。
 「エ、エ、この願いさい聞き届けて呉れませんか。」
 「ハイ、手を下して人を殺すことは、どう有っても出来ません。」
 春人は切れ切れに、
 「エエ、情け無い、何時まで生きて苦しまなければならない事か。夫人、貴女の仕方は本当に嬲(なぶ)り殺しと言うものです。」

 イリーンは最早留まって、彼の言葉を聞く事は出来ず、そのままここを逃げ去った。逃げる後から何物かが追って来る様に思われ、再び後を振り向くことも出来ない。唯一散に我家に帰ると、この時午後も早や三時過ぎで、一同の客人は春人のまだ音沙汰が無いのに気も休まらず、もし便りがあったら我先に之を聞こうと思う様に、皆玄関脇にある一室に集まって、顔と顔見合わせて居た。

 春人の妻李羅子は、今にも死のうとする病人かと思われるほどその顔色が青かったが、是も一室に籠もることが出来ず、心配に掻き立てられて、茲(ここ)に来た。来客中の貴夫人に労(いた)わられながら控えて居た。

 イリーンの夫公爵は、早や約束の通り数多の人夫を捜索に送り出し、自分は中央の指図役としてこの室の一方に椅子を置き、人夫から知らせて来る報知を、李羅子を初め一同に伝え聞かせた。
 しかしながら春人の運の尽きとも言うべきか、数隊の人夫は夫々人の通うための道のある所を目指して行き、春人が今現に倒れて居る、道の無い所へは誰も行かない。道の無き所に分け入って、春人が倒れて居ようとは誰も思わないからだ。

 イリーンは帰って来て、先ず部屋に入って我が姿を正し、漸(ようや)く心を落ち着けてこの部屋にやって来た。一同の口から、これらの次第を聞いて、少し安心の想いを為し、この分では人夫等が春人を見出すのは今日中の事ではない。早くても春人が死に切った後になるに違いない。
 愈々以って我が身が疑われる恐れは無いと、密かに我が胸を撫(なで)る折しも、忽ちこの部屋に躍(おど)り入った一物があった。

 何かと思えば是こそ夫公爵が、かって我が身に贈って呉れたベドという飼い犬である。
 ベドは人々の注意を呼ぼうとする様に、非常に異様な声で吠え唸(うな)ったので、イリーンは第一にその姿に目を注いで見ると、これはどうした事だろう、ベドの首には血の付た一個のハンカチが結んで有った。

 何の為だろうと疑うまでも無く、イリーンの心には忽(たちま)ちに分かった。
 アア、この犬、我が身の後を追って彼春人の倒れて居る所に到り、春人の手でこのハンケチを結ばれたのだ。春人は其(そ)の身が怪我で倒れて居る事を一同に知らせる為、必死の力でこの犬の首に、このハンケチを結んだのだ。アア春人の運は未だ尽きていない。


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