巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume53

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.8.24

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               五十三

 春人が唯一人、イリーンに会い度いとは何を言う積りなのだろう。イリーンは我が身が彼に宣告した様に、今彼から宣告を受ける時が来たと、唯恐ろしさに耐えられなかったが、逃げも隠れも出来ない場合なので、我が運の尽きと断念(あきら)め潔く宣告を受ける外は無いと、漸く度胸を定めたけれど、屠所(としょ)に入る羊の想いで看病婦の後に従い、春人のいる室に入って行った。

 一昼夜、泣いて顰(しか)めた春人の顔は、今は何の表情も現さない。苦痛に固まって石の様になったのか、彼が恨んで居るのか、彼が怒っているのか、イリーンは見て取る事が出来なかった。唯当たって砕けようとの考えで、彼の寝台の傍に寄り、一切の同情を押隠した声で、
 「何か私しへお話が有る相ですが、サア聞きましょう。」
と促すと、春人は傍の女達を気にする様に、

 「暫(しばら)く一同を退けて下さい。貴女唯一人に話さなければばなりません。」
 女達はこの語を洩れ聞き、是も危篤である病人の、根も無い望みと思い、イリーンの退けるのを待つまでも無く、各々立ち去った。
 春人は身辺にイリーンの外、一人も聞く人が無いのを見済まして、愈々恐ろしい宣告を始めるかと思いの外、彼一語をも発せずして唯泣き咽(むせ)ぶだけ。

 イリーンは異様な想いがして、非常に冷淡な調子を粧(よそお)い、
 「貴方は何を泣くのです。」
 春人はまだ咽(むせ)びながら、
 「イヤ、夫人、私が助かれば直ぐに貴女の罪を暴(あば)き立てる積りでしたが、未だ誰にも貴女の名を言いません。人々に問われる儘(まま)、怪我の次第は話しましたが、貴女がこの怪我を見て救わずに立ち去った、その無慈悲な振る舞いは全く誰も知らないのです。」

 「貴方の口から出ないならば、他人の知る筈は有りません。併し其れが如何しました。」
 「イヤ、夫人、今という今は本当に貴女の復讐を知りました。自分の苦痛が一方ならないに付け、貴女の救ってくれないのが益々憎く、貴女を祟(と)り殺したい程に思いましたが、段々身体の弱るに付け、何故貴女が救ってくれないのだろうと考えてみれば、全くその昔私が貴女を苦しめたからの事です。

 さては貴女の其の時の苦しみも是ほどであったかと思うと、私は身体の苦痛よりも、我が心の罪が恐ろしくつくづく後悔致しました。これでは死でも浮ばれない。この上夫人を恨むのは無理、夫人に我が罪を赦(ゆる)して貰はなければ成らないと思い、それからと言う者は、目を閉じた儘(まま)私は唯自分の身を責めて、我が罪の亡びるのを祈って居ました。この儘(まま)私が死ねば猶更、たとえ生きるとした所で、再び貴女を恨まないばかりか、貴女の振る舞いは決して私の口からは出ません。

 これから心を入れ替えて、ハイ、私は本当の善人と為り、自分の目にも神の目にも、我の罪が充分消える様に致しますから、如何か貴女も過ぎ去った私の罪を赦して下さい。唯是だけがお願いです。」
 言い来って、又も涙に咽(むせ)返るのは、一昼一夜の苦しみで真に善心に立ち返り、誠の後悔を始めたものと見える。

 イリーンはこの様に聊(いささ)か意外の想いをしたものの、又思えば意外では無い。凡夫盛んな時は唯己を恃(たの)みとし、如何なる悪事も憚(はばか)らないが、一旦己の衰(おとろ)える時は、自ら恃(たの)むに足らないのを知り、真の後悔を始めることは人間の常であるからだ。

 春人もその身体が動くことが出来ず、その命の絶えようとする場合に臨んだので、全く是も罪の為と思い、罪の恐ろしさに自ら慄(おのの)くに至ったものだろう。 
 しかしながらイリーンはまだその罪を許すとも、許さないとも一言の返事も無い。

 春人は語を継ぎ、
 「イヤ、夫人、貴女はきっと私が此の通り死に際となって救われたのを、まだ不満だと思いましょうが、是で私が助かるにした所が、貴女の復讐は充分です、後悔と言うことを知らない私へ、真実後悔する程の苦しみを与えたからは、此の上の復讐は有りません。私は心底から身の罪を貴女に謝ります。

 結局私が怪我をしたのも、貴女の仰る通り天の降した復讐です。天罰です。それで私がその天罰を受け、罪に相当するだけの苦しみに服しましたから、天も是だけ苦しめば、もう助けやって好いと、初めて救いを私へ下したのです。犬に助けられたのも天の救いです。実に私は罪だけの苦しみを受けました、ハイ人間世界に又とない程の苦しみでした。

 医者の言葉に、たとえ命だけは助かっても生涯満足の身体にはなら無いだろうと申します。貴方の生涯を傷つけた代わりに、私も又生涯を傷つけられました。是でも貴女は未だ復讐が充分でない思いますか。」
 イリーンはここまで聞いて来て、更には生き替った彼が、全く小児よりもっと弱いのを見ては、心を動かさない訳にはいかなかった。宛(あたか)も独語の様に、

 「本当に貴方も、充分苦しみました。」
と言うと、春人はこの一語に、幾分か気の休まった様に、
 「私の苦しみを充分と思いなさるならば、唯一言今までの罪を許すと仰って下さい。貴女の口から赦(ゆる)しの言葉を聞かないうちは、死ぬにも死に切れず、生きたとしても心の重荷が弛(ゆる)みません。貴女の赦しは真に私を救います。」

 今迄の罪深い春人ならば、死んでも吐く事が出来ない清い言葉を、真心込めて吐き出したので、イリーンは全く我が復讐が充分に届いた事を知り、恨みの心も漸(ようや)く解け、
 「ハイ、貴女の罪は私の口から赦すとは言われない罪ですが、思へば私も罪の深い振る舞いを致しましたから、貴方の罪を赦し、併せて自分の罪も消える様祈りましょう。ハイ貴方の罪を赦します。」
と言ってイリーンは泣き崩れている春人の前額に手を当て、親切に慰めた。

 「一天の妖雲茲(ここ)に晴れて、初めて白日を見る。」とは、この時のイリーンの心地にして、又春人の心地のことであろう。



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