muzan1
探偵小説 無惨 小説館版
黒岩涙香 作 トシ 口語訳
since 2025.5.22
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください 。
a:122 t:1 y:1
探偵小説 無惨 涙香小史 作
上篇(疑団)ー1 痛ましい殺人
世に無惨な話は、数々あれど、本年七月五日の朝、築地字海軍原の傍らなる川中に,投込んであっった死骸ほど、無惨な有様は稀である。書くのさえも、身の毛が逆立(よだ)つ。翌六日、府下の各新聞紙は、皆、下の様に記した。
◎無惨な死骸
昨朝六時頃、築地三丁目の川中で発見した、年の頃三十四、五歳と見受けられる男の死骸は、何者の所為(しわざ)だろう。総身に数多の創傷(切傷)、数多の擦剥(すりむき)、数多の打傷がある。背(せな)などは、乱暴に殴打した者と見え、一面に膨(はれ)揚(あが)り、其の間には傷があって、傷口は開き、中から血に染(そま)った肉が見えるのさえあるが、頭部(あたま)には一ケ所、太い錐(きり)で突いたかと思われる、深さ二寸余(6cmくらい)の穴がある。
その上、鎚(つち)の類(たぐい)で、強く殴打した様子が見え、頭は二つに割け、脳骨砕けて、脳味噌が散乱した有様は、実に目も当てられない程である。医師の診断に由れば、孰(いづ)れも、午前二、三時頃に受けた傷であると。同人の着物は、紺茶縦縞の単物(ひとえもの)で、職業も更に見込みは附かない。且つ所持品等は一点も無い。
その筋の鑑定に拠れば、殺害した者が、露見を防ぐ為に、殊更奪い隠した者に違いない。故に何処(どこ)の者が、何の為に、この様に浅ましい死を遂げたのか、又殺害した者は、何処の者か、更に知る方法が無いので、目下厳重に探偵中である。(以上ハ、某新聞の記事を其の儘(まま)に転載した者である。)
猶(な)お、此の無惨な人殺しに附いて、其の筋の調べたる所を聞くと、死骸は川中から上げたけれど、流れて来た者では無い。別に溺(おぼ)れて漂て居たと認める箇条は無く、わざわざ水の来ない岸の根に、捨てて有った。
猶お周辺(あたり)に血の痕(あと)の無いのを見れば、外(ほか)で殺した者を、舁(かつ)いで来て、投げ込んだ者に違いない。又此の所から、一町(109m)ばかり離れた、或る家の塀に、血の附いた痕があるが、之も殺した所にでは無い。多分、血に塗(まみ)れた死骸を舁(かつ)いで来る途中、事情があって、少しの間、その塀に立て掛けた者に違いない。
殺したのは何者か、殺されたのは何者か。少しも手掛かりが無いとは云え、七月の炎天、腐り易い盛りと云い、取り分けて、我が国には、仏国巴里府、ルー、モルグに在る様な、死骸陳列所の施設も無いので、何時までも其の儘に、捨てて置く可きでは無い。最寄り区役所は、取り敢えず、溺死漂着人と見做(みな)して、仮に埋葬し、新聞紙へ、下の様に発表した。
溺死人、男、年齢三十歳から四十歳の間、当二十二年七月五日、区内築地三丁目十五番地先、川中へ漂着、仮埋葬済み。
◎人相 〇顔面長い方 〇口細い方 眉黒い方 目耳正常 左の頬に黒痣(くろあざ)一つあり 頭散髪、身の丈五尺三寸(160.6cm)位、中肉
◎傷所数知れず、その内大傷は眉間に一ケ所、背(せな)に、截割(たちわり)した様な切傷二ケ所、且つ肩から腰の辺りへ掛け、総体に打ちのめされた様に、膨(は)れ上って居る。左の手に三ケ所、首に一ケ所、頭の真ん中に大傷、其処此処に擦傷(かすりきず)等数多あり。咽(のど)に攫(つか)み潰(つぶ)した様な傷。
◎衣類 大名縞単物(ひとえもの)、二タ子唐桟(ふたことうざん)羽織、但し紐付き、紺博多帯び、肉シャツ、下帯、白足袋、駒下駄。
◎持ち物は何もない。
◎心当たりの者は、申し出ること。
明治二十二年七月六日 最寄区役所
(上、某新聞より転載)
注;疑団・・・疑いのかたまり。心にしこりとなって解けない疑い。
a:122 t:1 y:1