muzan13
探偵小説 無惨 小説館版
黒岩涙香 作 トシ 口語訳
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探偵小説 無惨 涙香小史 作
中篇(忖度)ー4 犯人は支那人
荻澤警部は暫(しば)し呆(あき)れて目を見張っていたが、又暫し考えて、
「それでは、支那人が殺したと云うのか。」
(大)ハイ、支那人が殺したから、重大な事件と云うのです。固(もと)より単に、人殺しと云うだけの罪ですけれど、支那人と有って見れば、国と国との問題にも成り兼ねません。事に由っては、日本政府から支那政府へー。
(荻)併し未だ支那人と云う証拠が、充分に立(たた)ないでは無いか。
(大)是で未だ証拠が立たないと云うのは、それは無理です。第一、此の犯人を男か女かとお考えなさい。アノ傷で見れば、死ぬ迄に余程闘った者ですが、女ならアレほど闘う中に、早く男に刃物を奪い取られて、反対(あべこべ)に殺されます。又背中の傷は、逃げた証拠です。相手が女なら、容易な事では逃げません。それに又女はー。
(荻)イヤ女で無い事は、考えるまでも無い。箱屋殺しの様な例(はなし)も有るけれど、それは不意打ちだった。アノ傷は決して不意打ちでは無く、随分闘った者だから、それはもう男には違い無い。
(大)サア、既に男とすれば、誰が一尺(30cm)余りの髪(け)を延して居ますか、代言人《弁護士》の中には有るとか云いますけれど、それは論外、又随分チョン髷も有りますが、此の髪(け)の癖を御覧なさい。揺れて居る癖を代言人《弁護士》や荘士の様な散(ちら)し髪(け)では無論、此の癖(くせ)は附きません。チョン髷でも同じ事。唯だ此の癖の附くのは支那人に限ります。
支那人の頭は御存知でしょう。三ツに分けて紐(ひも)に組みます。解いても癖直しをしない中は、此の通りの曲(くせ)が有ります。根(もと)から梢(すえ)まで、規則正しくクネッて居る所を御覧なさい。それに又、支那人の外には、男で入れ毛する者は、決して有りません。
支那人は入毛をするのみならず、それで足りなければ、糸を入れます。此の入れ毛と云い、此の縮(ちぢ)れ具合と云い、是が支那人で無ければ、私は辞職します。エ、支那人だと思いませんか。
荻澤は一応その道理があるのに感じ、更に彼(あ)の髪の毛を調べると、如何にも、大鞆の云う通りであった。
「成る程、一(ひと)理屈あるな。」
(大)サア、一(ひと)理屈あると仰有(おっしゃ)るからは、貴方も、もう半信半疑と云う所まで、漕ぎ附けました。貴方が半信半疑と来れば、此方の者です。私も是だけ発見した時は、尚(ま)だ半信半疑で有ったのです。
所が後から段々と確かな証拠が立って来るから、遂に何うしても支那人だと思い詰め、今ではその住居、その姓名まで知って居ます。その上殺した原因からその時の様子まで、略(ほぼ)分かって居ます。それも宿所の二階から一足も外へ踏み出さずに解明したのです。
(荻)それでは先ず名前から云うが好い。
(大)イエ、名前を先に云って仕舞っては、貴方が終わりまで聞かないから了(い)けません。先ずお聞きなさい。今度は傷の事から申します。第一は、アノ背中に在る刃物の傷ですが、是は怪しむに足りません。
大抵人殺しは刃物が多いから、先ず当たり前の事と見逃して、扨(さ)て、不思議なのは、脳天の傷です。医者は鎚(つち)で叩いたと云いますし、谷間田は、その前に頭挿(かんざ)しででも突いただろうかと、怪しんで居ますが、両方とも間違いです。
何よりも前(さき)に、丸く凹込(めりこ)んで居る所に眼を留めなければ成りません。鎚で叩いたなら、頭が砕けるにもしろ、必ず膨揚(はれあ)ります。決して何時までも凹込(めりこ)んで居ると云う筈は無い。それだのに、アノ傷が実際凹込(めりこ)んで居るのは、何う云う訳でしょう。
是は外でも無い、アレ丈の丸い者が頭へ当たって、当たった儘(まま)で四、五分間もその所を圧附(おつけ)て居たのです。その中に命は無くなるし、血は出て仕舞い、膨上(はれあが)るだけの精が無く成ったのです。サア精の無く成った後で、その丸い者を取り除いたから、凹込(めりこ)んだままに成ったのです。それならその丸い者は何か。何うしてそう長い間、頭を圧(お)し附けて居たのか。是が一寸と合点の行きにくい所です。
注;箱屋殺し・・・明治20年24歳の芸妓花井お梅が、箱屋八杉峰三郎を殺害した事件。
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