muzan15
探偵小説 無惨 小説館版
黒岩涙香 作 トシ 口語訳
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探偵小説 無惨 涙香小史 作
中篇(忖度)ー6 怨みの為の犯行
(萩)成る程、白髪(しらが)だ。熟(よ)く見れば白髪を染めた者だ。シテ見ると老人だナ。
(大)ハイ私しも初めは、老人と見込みを附けましたが、更に考え直して見ると、第一老人は身体(からだ)も衰え、従って、一切の情欲が弱くなり、その代わり、堪弁(かんべん)《忍耐》と云う者が強く為って居ますから、人を殺すほどの立腹は致しません、たとえ立腹した所で、力が足リないから、若い者を室中(へやじゅう)追い廻る事は出来ません。
(荻)それもそうだな。
(大)そうですから、是はそれほどの老人では有りません。随分と、四十に達しない中に、白髪ばかりに成る人は有りますよ。是もその類(たぐい)です。年が若く無ければ、アノ吝嗇(りんしょく)《けち》な支那人ですもの、何うして白髪(しらが)を染めますものか。年に似合わず、白髪が有って、よくよく見っとも無いから、止むを得ず染めたのです。
(荻)是は感服だ、実に感服。
(大)サア是から後は、直ちに分かりましょう。支那人の中で独楽(こま)を弄(もてあそ)ぶ位の子供が有って、年に似合わず、白髪が有って、それでその白髪を染めて居る。此の様な支那人は、決して二人とは有りません。
(荻)そうだろう。そうだろう。だが君は以前から、その支那人を知って居たのだな。
(大)イエ知りません。全く髪の毛で推理したのです。
(荻)何の様な推理を。
(大)イヤそれは話しの種ですから、それを申し上げる前に、先ず貴方に聞いて置く事が有ります。今まで私の説明した所に、何か不審は有りませんか。若し有るならば、それを残らず説明した上で無ければ、その推理とその名前は申されません。
(萩)爾(そう)かな。今までの所には、別に不審も無いが、イヤ待て、俺は此の人殺しの原因が分からないぞ。谷間田の云う通り、喧嘩から起こった事か、それとも又ー。
(大)イヤ喧嘩では有りません。全く遺恨です。遺恨に相違有りません。谷間田はアノ、傷が沢山有ると云う一点に目が暗(くらん)で、第一に大勢で殺したと考えたから、それが間違いの初めです。
成る程、大勢で附けた傷とすれば、喧嘩と云うより外に、説明の仕ようが有りません。併し是は決して大勢では無く、今も云う通り、当人が逃げ廻ったのと、梯子段(はしごだん)から落ちた為に様々の傷が附いたのです。矢張(やっぱ)り一人と一人の闘いです。一ツも大勢を相手と云う証拠は有りません。
(萩)併し遺恨と云う証拠は。
(大)その証拠が仲々入り組んだ議論です。気永くお聞きを願います。尤(もっと)も是ばかりは、私しにも充分には分かりません。唯遺恨と云うこと丈が分かったので、その外の詳しい所は、到底本人に聞く外は、仕方が有りません。先ずその遺恨と云う丈の道理を申しましょう。」
大鞆は一汗拭いて言葉を続け、
「第一に目を附けるべき所は、殺された男が一ツも所持品を持って居無い一条です。貴方を初め、大概の人が、是は殺した奴が露見を防ぐ為めに、奪い隠して仕舞ったのだと申しますが、決してそうでは有りません。
若しそれほど抜け目なく、気の附く曲者なら、自分の髪の毛を握られて居る事にも、必ず気が附く筈です。それなのに、髪の毛に気が附かず、そのまま握らせて有ったのは、唯だもう、死骸さえ捨てれば好いと、ドギマギして死骸を擔(かつ)ぎ出したのです。
(荻)フム、その通りだ。所持品を隠す位なら、成る程、髪の毛も取り捨てる筈だ。シテ見ると、初めから持ち物は持って居無かったのかナ。
(大)イエ、そうでも有りません。持って居たのです。極々下等の衣服(みなり)でも有りませんから、財布か紙入れの類は、絶対持って居たのです。
(萩)併しそれは君の想像だろう。
(大)何うして何うして、想像では有りません。演繹法の推理です。たとえ、又紙入れを持って居ないにしても、煙草入れは絶対持って居ました。彼は非常な煙草好きですから。
(荻)それが何うして分かる。
(大)それは誰にも分かる事です。私しは、死骸の口を引き開けて、歯の裏を見ましたが、煙脂(やに)で真っ黒に染まって居ます。何うしても、余程の煙草好きです。煙草入れを持って居ない筈は有りません。
是が書生上りとか何とか云うなら、随分お先煙草と云う事も有りますけれど、彼はそうで有りません。安物ながら、博多の帯びでも〆て居れば、絶対、もう腰の廻りに煙草入れが有る者です。
注;堪弁・・・堪え忍ぶこと。忍耐。
注;感服・・・深く感心すること。深く感じて従うこと。
注;お先煙草・・・訪問先で、主人側が客にもてなしとして出すタバコ。人からタバコをもらうこと。
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