muzan18
探偵小説 無惨 小説館版
黒岩涙香 作 トシ 口語訳
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探偵小説 無惨 涙香小史 作
下篇(氷解)ー1 お紺の証言
全く谷間田の云ったように、お紺の申し立てで、此の事件の大疑獄は氷解した。
今お紺が荻澤警部の尋問に答えた事の荒ましを、ここに記す。
妾(わらは)は長崎の生まれで、十七歳の時、遊郭に身を沈め、多くの西洋人、支那人などを客としたが、間もなく或る人に買い取られ、上海に送られた。上海で同じ勤めをするうちに、深く妾(わらは)を愛し初めたのは、陳施寧(ちんしねい)と呼ぶ支那人である。
施寧はかなりの雑貨商で、以前から長崎にも支店を開き、弟の陳金起と言う者を、その支店に出張させ、日本の雑貨買い入れなどの事を任せて置いたが、弟金起は兎に角、放埓(ほうらつ)で、悪い行いが多く、その上、支店の金圓を使い込んで、施寧の許へ送ると言っては、一銭も送らなかったので、施寧は自ら長崎に渡ろうとの心を起こした。
それについては、お紺こそは、長崎生まれの者なので、引き連れ行けば、都合の好い事も多いだろうと思い、終に妾を買い取って、長崎に連れて来た。施寧は生まれ附き、甚だ醜い男で、頭には年に似合わぬ白髪(しらが)が多く、妾は彼を好ま無かったが、唯故郷に帰る嬉しさから、その言葉に従ったのだった。
やがて連れられて、長崎に来て見ると、その弟の金起と云う者は、初め妾が長崎の遊郭で勤めて居た頃、馴染みを重ねた支那人で、施寧には似ない好男子だったので、妾は何時しか施寧の目を掠(かす)めて、又も金起と割無き仲と為った。しかしながら、施寧は、その事を知らず、益々妾を愛し、唯一人で居た、妾の母まで引き取って、妾と共に住まわせた。
母は早くも、妾が金起と密会する事を知ったけれど、別に咎(とが)める様子も無く、それに金起は兄施寧より、心広くて、しばしば母に物など贈ることがあったので、母は反って好しい事に思い、妾と金起の為に、便宜を作る事もある程であった。
その内に、妾は誰かの種を宿し、男の子を儲けたが、勿論、施寧の子だと云って、陳寧次と名づけて育てた。是から一年余も経た頃、風(ふ)としたことから、施寧は妾と金起との間を疑い、非常に怒って、妾を打擲(ちょうちゃく)し、且つ金起を殺そうと迄に、猛(たけ)り狂ったけれど、妾が巧にその疑いを言い解いた。
こんな状況になっても、妾は何故か金起を思い切る気は無く、金起も妾を捨てるに忍びないと言って、少しも懲りずに不義の働きを為して居た。寧児が四歳の時なった時、金起は悪事を働き、長崎に居ることが出来ない身と為ったので、妾に向かって、共に神戸に逃げて行こうと勧めて来た。
妾は以前から、施寧には、愛想が尽き、只管(ひたすら)金起を愛していたので、それならば、寧児をも連れて、共に行こうと云ったが、それは足手纏いになると言って、聞き入れる様子がなかったので、仕方なく、寧児を残す事とし、母にも告げず、支度を為し、翌日二人で長崎から舩(ふね)に乗った。後で聞くと、金起は、出発に臨み、兄の金を千圓近く盗んで来たとの事であった。
頓(やが)て、神戸に上陸し、一年余り遊び暮らすうち、金起の懐中も残り少なくなったので、今のうちに、東京に行き、相応の商売を初めると言って、又も神戸を去り、東京に上って来たが、当時築地には、支那人の開く博奕宿があった。
金起は日頃好き好む事だったので、直ちにその宿に入り込んだが、運悪くして僅(わず)かに残っていた金子さえ、忽(たちま)ち失い尽くしたので、如何に相談したのか、金起は妾をその宿の女中に住込まわせ、己れは、
「七八」
の小使いに雇われた。
此の後、一年を経て、明治二十年の春となり、妾も金起も築地に住むことが難しい事情が出来た。その因由(わけ)は、他でもない、あの金起の兄である陳施寧が、商売の都合で、長崎を引き払い、東京に来て、築地に店を開いたと、或る人から聞いたので、当分の間、分かれ分かれに住む事とし、妾は口を求めて本郷の或る下等料理屋へ住込み、金起は横浜の博奕宿へ移った。
或る日、妾は一日の暇を得たので、久し振りに金起の顔を見ようと、横浜から呼び寄せて、共に手を引き、此処彼処(ここかしこ)を見物するうち、浅草観音に入ると、思いも掛けず、見世物小屋の辺で、後ろから、
「お紺、お紺」
と呼ぶ者があった。
振り向いて見ると、妾の母であった。寧児もその傍にあって、見違えるほど成長していた。
「オヤ、貴女は]
注;疑獄・・・犯罪の疑いがあって、検察官の追求を受けながら、罪の有無の判じにくい事件。主として、公務員の贈収賄事件。
注;放埓(ほうらつ)・・・・勝手気ままで、だらしがないこと。
注;打擲(ちょうちゃく)・・・殴ること。
注;七八・・・ 賭事で、残りの有り金をすべてかけてする勝負。また、比喩的に、生命や財産を失う覚悟で行なう旅行や商売もいう。博奕の胴元。
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