muzan20
探偵小説 無惨 小説館版
黒岩涙香 作 トシ 口語訳
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探偵小説 無惨 涙香小史 作
下篇(氷解)ー3 隠れていた陳施寧
直ちに施寧の家に入り、母と少しばかり話しをした後、例の様に金起と共に二階に上り、一眠りして、妾は二時頃、一度目を覚ました。見ると金起も目を覚まし居て、
「お紺、今夜は何と無く気味の悪い気がする。俺はもう帰る。」
と云いながら、早や寝衣(ねまき)を脱いで、衣物(きもの)に更(あらた)め、羽織など着て、枕頭(まくらもと)に居直るので、妾は不審に思い、
「何がその様に気味が悪いのです。帰ると言っても、今時分何処(どこ)へ帰ります。」
(金)何処でも好い。此の家には寝て居られない。
(妾)何故(なぜ)です。
(金)先程から目を醒まして居るのに、賊でも入って居るのか、押し入れの中で、変な音がする。ドレ其方(そっち)の床の間に在る、その煙草入れと紙入れを取って寄越せ。
(妾)なに貴方、賊など入りますものか。念の為に見て上げましょう。」
と云いながら、妾は起きて、後ろにある押し入れの戸を開けたところ、これは如何した事か、中には、一人り眠ている人があった。妾は驚いて、
「アレー」
と云いながら、その戸を閉め切ると、眠って居た人は、此の音に目を覚ましたのか、戸を跳ね開いて暴れ出た。
良く見れば、是、金起の兄である陳施寧であった。今から考え、振り返って見ると、施寧はその子寧児から、此の頃、妾が金起と共にその留守を見て、泊まりに来ることを聞き出し、半ばは疑い、半ばは信じ、今宵はその実否を試そうとして、二日泊まりで横浜へ行くと云って、家を出た体に見せ掛け、明るい中から、此の押し入れに隠れて居たが、十時頃まで、妾と金起が来なかったので、待ち草臥(くたび)れて、眠むってしまったのだ。
取りわけ、西洋戸前のある押し入れの中に、堅く閉じ籠って居た事なので、その戸を開く迄、物音が充分聞こえなかったので、目を覚まさずに居た者である。それは扨(さ)て置き、妾は施寧が躍り出るのを見て、転(ころ)がる様に、二階を降りたが、金起は流石に男だけに、徒(いたずら)に逃げても、後で証拠と為る様な懐中物などを遺(のこ)しては、何んの甲斐も無しと思ったのか、床の間の方に飛んで行こうとすると、そのうち早や後ろから、脊(せな)の辺りを切り附けられた。
妾はここまでは、チラと見たけれど、その後の事は知らない。唯この様に発覚したのは、母が手引きをした疑いがあるので、後で妾からも、もっと酷(ひど)い目に逢うに違いないと、驚き騒いで止まらなかったので、妾は直ちにその手を取り、裏口から、一散に逃げ出した。
夜更けではあったが、麻布の果てまでは行けないと思い、一緒に奉公した女が、安宿の女房と為って居るのを知っていたので、通り合わせた車に乗って、その許に頼って行きながら、譯は少しも明かさずに、一泊を乞うたが、夜が明けて後も、此の辺りへは、人殺しの評(うわさ)も聞こえて来なかったので、妾は唯金起が殺されたのか、如何したかと、その身の上を気遣うばかりだった。
しかしながら、別に方法もなかったので、何とかして、この後の身の振り方を決めようと、思案しながら、又も一夜を泊まったが、今日午後一時過ぎに、谷間田探偵が入って来て、種々の事を問われた。
固(もと)より我が身には、罪と云う程の罪ありとは思わないので、在りの儘(まま)を、打ち明けたところ、この様に、母と共に引き立てられた次第です。
完
注;戸前・・・土蔵の扉は火災時に内部の宝物を護る防火戸のようなもので、木製の建具の外側に設けられることから「戸前(とまえ)」と呼ばれる。 二重扉。
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